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1. 前奏
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ ※ご家族と交唱してくださっても良いですし、お一人の場合は司式部分をお読みください。 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
讃美唱 詩編100編1節‐5節
100:1【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
2喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。
3知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。
4感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
5主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。
4. 主日の祈り
司式)祈りましょう。
全員)憐れみ深い神様。あなたは私たちに道を開き、御許に導いてくださいました。私たちの心にあなたの愛を注ぎ、溢れる喜びをもって御国の祝福を分かち合い、御子の福音を忠実に宣べ伝えさせてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
5. 聖書朗読
第一日課 出エジプト記 19章2節‐8節a (旧)124頁
19:2彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
3モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
4あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
5今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
6あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
7モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。8民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。
第二日課 ローマの信徒への手紙 5章1節‐8節 (新)279頁
信仰によって義とされて
5:1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
福 音 書 マタイによる福音書 9章35節‐10章8節 (新)17頁
群衆に同情する
9:35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
十二人を選ぶ
10:1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
十二人を派遣する
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
6. 説教 「神の働き手」 竹田大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
私たちは、聖霊降臨祭から教会暦を「聖霊降臨後」という中で過ごしていきます。キリストの生涯を覚え、キリストが昇天され、聖霊降臨の出来事という一連の時の流れの中で、聖霊降臨後の教会暦が一番長い時を過ごすわけですが、この時は、キリストがこの世に居られない中で、弟子たちがキリストの御ことばを宣べ伝え、教会がどのように歩んでいったらよいのかキリストの御ことば、聖霊の導きのうちに歩んでいく姿を覚えていきます。
そのような中で与えられている御ことばは、キリストが憐れみを群衆に向けられた出来事と十二使徒の選出、派遣の御ことばです。与えられているキリストの出来事と御ことばを通して与えられている神の御心をご一緒に聴いてまいりたいと思います。
さて、教会はしばしばキリストの群れであると表現されることがあります。キリストを羊飼いとし、その羊飼いに養われる羊としての弟子たちという姿です。この羊飼いが、私たち一人ひとりを苦難と困難から守り、導いてくださるのです。
この主の群れであることの根拠は「わたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。」という出エジプト記の神との間に結ばれた契約に依拠しています。神との義しい関係によってもたらされる恵みは、神のみ声に聴き従うことによって私たちが神の宝とされるという喜びの約束が結ばれているということです。
これが本来の神と人間との関係でした。しかしながら、聖書全体が伝えていることは、人間がこの神と本来あるべき関係を守ることができないという事実です。それは、ただ単に約束を守ることができないということではなく、先週の日課で指摘した通り、私たちは誰であろうと生まれながらに罪人でしかないということに起因しています。
神は私たち一人ひとりをご自身の宝にしてくださろうとしているのに、私たちは神を宝とできないのです。その人間の様子をキリストの視点から描いているのが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ということばに現わされています。神を宝とすることができない故に、私たちは弱り果てて、打ちひしがれているのです。
翻って私たちの生きる今を見つめてみますと、神など必要ない時代だと言われています。神など無くとも生きていけるとキリスト者である私たちでさえ思わされるような出来事に遭います。また、神にとって代わるモノが世に溢れているとも思わされます。
その一つを取り上げるならば、財ということが言えると思います。貧窮、貧困は人々を苦しめます。資本主義の今日にあって、財の有無は日々の生活を大きく左右します。それが無ければ、命の危険にすら晒されるのですから、無くてはならない物であると多くの人々は考えられています。
そして、これを得るために私たちはいつも躍起になっています。この事によって人が人を貶め、虐げ、弱めています。そういう永遠に終わることのない運動を持っている者も、持たざる者もし続けて、疲れ果てている姿をそこかしこで散見します。
そのような現実を前にして私たちに神は深い憐れみを向けてくださっているのです。「憐れみ」とはただ可哀そうと思うことではありません。神の憐れみとは「ハラワタ痛む」と表されるように、神であるキリストが私たち一人ひとりの心身に覚える疲れ、様々な内的、外的要因によって打たれ、傷ついている心をご自身の痛みとしてくださっているのです。
この痛みを覚えているキリストが、人々のために「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」のです。私たち一人ひとりの疲れ果てた心や体、打ちひしがれている私たちにキリストはまず福音を語り掛けてくださっているのです。そして、御ことばを通して私たちは癒され、再び一つの群れとされているのです。
神が私たち一人ひとりを宝としてくださり、私たち自身から神との関係を切ってしまっているにもかかわらず、その私を深い憐れみをもって臨んでくださることによって一つの群れとなることは現実となります。普通であれば、縁や関係を一方的に切られた相手の事など憐れむ気にも愛することもできません。しかしその破れを神はご自身の痛みとして下さり、再びあなたと関係を結びたいと願ってくださっているのはまず神だったのです。
ですから、神の福音が鳴り響く時、全ての人々の疲れ、悩みが癒され、私たちは一つとされていくのです。神が私たちのもとに来られ、私たち一人ひとりの痛みを担ってくださり、共に生きてくださっているという代え難い宝を与えられています。この宝を通して私たち一人ひとりは、力づけられ、キリストが町や村を残らず回られたように、私たちもまたこの世のどこへでも出かけ、福音を語り、私たち自身が一つの群れとなり、喜びを分かち合う者とされていることを伝えるのです。
私の力や言葉ではありません。神の御ことば、福音を携え、神から与えられているそれぞれの賜物を生かし、教会は教会としての召しを担っていくのです。それはこの世的な財やその他の力で成るのではありません。神から与えられる宝である福音によって成し遂げられます。そして、この宝を得るために躍起になる必要もありません。
この福音という宝は神が一方的に与えてくださっているからです。一人ひとりに等しく与えられています。そのことを深く自覚する時、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という福音の意味を理解することができることでしょう。何にも囚われず、何にも繋がれていない自由な魂で喜びに溢れ、恵みのうちに活き活きと生きる者とされていることに気が付くことでしょう。
ルターは、「六二 教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音(だけ)である」(95カ条の提題)と語っています。私たちに必要なのは福音だけであり、福音こそが最も価高く、真の宝であることを心に刻みたいと思います。神は福音を罪人である私たちに惜しみなく、ただで宝を与えてくださっています。罪人に対する報酬は、滅びではなく、福音という赦しの証しであり、私たちを生かす宝なのです。
弱り果て、悩みつくしている私です。自分の存在の小ささや、無価値なのではないかという痛みを覚えます。しかしながら、神は私たちのもとに来られ、あなたは私の宝であると語り掛け、私という存在のすべてを受け入れてくださっています。そればかりか溢れるほどの恵みを与えてくださっています。この神を信じる信仰をもって、福音という宝を通して与えられる喜びを聖霊の導きに従い、力づけられながら共に宣べ伝えてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
7. 信仰告白 (起立)
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、お とめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
8. 献金 (着席)
9. 教会の祈り
10. 主の祈り (起立)
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
11. 祝福 (起立)
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)
アー メン アー メン ア ー - - メン
12. 讃美歌 教団讃美歌 225番 (3節)
十字架のうえに 死にたまえる み子こそ永久(とわ)の すくいなれや。
かみのたまえる この知らせを、 地のはてまでも 告げひろめよ。
13. 後奏
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