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6月16日 三位一体主日説教

  • ltnishinomiya
  • 2019年6月20日
  • 読了時間: 9分

「父と子と聖霊の神」

主日の祈り

全能の神、栄光の父なる神。み霊によってすべては新しくされます。主キリストのみ力によって、一切の恐れと疑いを私たちから取り除き、父と子と聖霊のひとりの神を礼拝する恵みを与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇 8:2~10

主よ、わたしたちの主よ。あなたのみ名はいかに力強く、

∥全地に満ちていることでしょう。

  天に輝くあなたの威光をたたえます。

    ∥幼子、乳飲み子の口によって。

  あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、

    ∥報復する敵を絶ち滅ぼします。

  あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。

    ∥月も、星もすべて、あなたが配置なさったもの。

そのあなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。

∥人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。

  神に僅かに劣るものとして人を造り、

    ∥なお、栄光と威光を冠としていただかせ、

  み手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。

    ∥羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものすべてを。

主よ、わたしたちの主よ。あなたのみ名は、いかに力強く、

∥全地に満ちていることでしょう。




本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書6章1‐8節(旧)1069頁

6:1ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。2上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。3彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」4この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。5わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」6するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。7彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」8そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


第2日課:ローマの信徒への手紙8章1‐13節(新)283頁

8:1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。


福音書:ヨハネによる福音書16章12‐15節(新)200頁

16:12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

先週の聖霊降臨祭(ペンテコステ)より、教会の暦は聖霊降臨節を迎えています。イエスが約束された弟子たちに与えられた聖霊の御力と御導きを覚えながら、同時に私たちの宣教の力の源としての神ご自身が共に居てくださっているという確信を与えられています。ですから、宣教とは私たち自身の知恵や力によるのではなく純然たる神のお働きであることを覚えながら過ごすのが聖霊降臨節の在り方でしょう。この教会暦の期間は、これから待降節まで続きますが、それはまさに私たちの働きが神の福音の宣教にあって、非常に長い道のりであることを示しています。


 そのような中で私たちは、毎年聖霊降臨祭(ペンテコステ)から一週間後の主日を三位一体主日として守っています。父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神、三つの位格を持ちながらも唯一の神であるという何とも不可解で、難解な神のみ姿を示されています。三位一体の神について解説いたしますと、まるで神学校の講義になってしまいますから、今この時は、この神が私たちにどのような福音の恵みを語り掛け、恵みを与えてくださっているかを共に聴いてまいりたいと思います。


 さて、今日の第一日課はイザヤの召命の場面です。冒頭にウジヤ王が死んだ年に起こったことであるとその背景が記されています。このウジヤという人は「主の目にかなう正しいことをことごとく行った。神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤが生きている間は、彼も主を求めるように努めた。彼が主を求めている間、神は彼を繁栄させられた。」(歴代下26:4,5)とあるように、彼の統治の当初は、神を畏れ敬い、信仰し、神の目に正しくされていたのです。


 しかしながら、彼はその名声が轟くごとに、神のみ前に「思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた」(同26:16)のです。その結果、彼は重い皮膚病に悩まされ、その死の瞬間まで病の中に置かれ、王たちの墓に葬られること無く、「王の墓の近くの野に先祖と共に葬られた」(同26:23)のです。彼は52年間イスラエルを統治していました。

そういう一つの時代が終わり、次いでイスラエルを受け継いだのはヨタムという王でした。彼もまた正しい人でしたが、「民は依然として堕落していた。」(歴代下27:2)のです。


 そういう混乱と背信の民が蔓延る中でイザヤは神からの召しを与えられたのです。イザヤは、この民の一員としての深い自覚と、重い罪責の念に駆られていました。自分もまた神の御前において何も正しくあれない、罪人の一人にすぎないという深い自覚があったのです。

その彼が神の幻を見るということは、心に大きな恐れを抱かせます。神の裁きが下され、死と滅びが襲うかもしれないという恐れです。しかしながら、神はそのような恐れに取りつかれている、イザヤのもとに来て、火によって唇を清め、神のみ言葉を語り継ぐ者としてくださったのです。これはどういうことかというならば、唇は、罪を犯させるものだと考えられるでしょう。「口は禍の元(門)」といいますが、まさにそうで私たちは本当に語る言葉、語らざる言葉によって様々に神のみ前に罪を犯してしまっているのです。


 その私たち一人ひとりを、霊が来られ、清めてくださり、神のみ言葉を宣べ伝える者として造り変えてくださるのです。罪人にすぎない私を神はとらえ、霊を送り、神のみ言葉の真理をことごとく悟らせてくださるのです。これは驚くべきことです。本来であれば、私たちは罪人にすぎないのですから、神のご用などに相応しくない者でしかありません。しかしながら、それにもかかわらず神は、この罪人をとらえてくださっているという真実は、私たちに深い慰めと同時に力づけを与えてくださっています。


 そして、この事がらにおいて大切なことは主イエスが弟子たちに語り掛けた「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」というみ言葉に示されています。この「真理」という言葉には英語で云う「The」という定冠詞が付いているということです。すなわち、キリストの福音について、主イエスは既に居られなくとも、私たちが聖霊を通して福音の恵みが与えられ続けているということです。


 それは即ち、神は今も私たちと共に生きておられ、そして、私たち一人ひとりのために神ご自身が働いて下さっているという真実を伝えてくださっているのです。私たちの信仰は、本当に弱く、乏しいものです。罪の力に負けて、神をないがしろにします。ましてや見えない存在となられているわけですから、余計に私たちはそれを信じきるということの難しさを覚えるでしょう。


 しかし、今日のみ言葉を通して、その方は永遠に私たち一人ひとりと共に在って、神の福音の真理を教えてくださる方であるということをイエスは告げ知らせてくださっています。その中でイエスはさらに「これから起こることをあなたがたに告げる」と仰っています。それは終わりの日にすべての人が救いに導かれるという希望です。これは単に終わった時がそうだということではなく、今、苦しみ、悩み、嘆き、悲しみといった絶望感に打ちひしがれ、力なく立ちすくむ、あるいは倒れている人々にとって希望そのものの福音となる言葉を私たちに与え、真の希望を語る者としてくださるということです。


 再三申し上げますが、罪人にすぎない私たちが、神の福音、そこから与えられる希望、平安、愛を宣べ伝える器とされている驚きを隠せません。しかし、「神にできないことは何一つない」とイエスが語るみ言葉は真実なのですから、罪人を造り変え福音の死者とすることも神においては可能なのです。私たちの抱える罪といったものを打ち破り、克服し、更には恵みを与えてくださる方が、これからも共に生きてくださっています。


 父と子と聖霊の神に心からの信頼し、自分の命を委ねていくことの幸いを覚えてまいりましょう。見えざる手ではありますが、信仰によってそれは確かな御手となります。イエスの御声は聞こえませんが、信仰によってそれは確かな御声となります。このようにしてすべての我々の常識の壁、疑いの壁を打ち破る信仰の奥深さを覚えてまいりましょう。イザヤの出来事を通して改めて私たちは神の福音を語る者とされていることを心に刻み、福音宣教に父と子と聖霊の神の導きと真理が豊かに光となって顕されている喜びをおぼえながらこの与えられた命の日々を過ごしてまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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