6月21日(聖霊降臨後第3主日)の式文と説教
- ltnishinomiya
- 2020年6月21日
- 読了時間: 12分
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。
会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編69編8節‐11節、17節‐19節
69:8わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。
9兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
10あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。
11わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ
17恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
18あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。
19わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)慈しみ深い主なる神様。あなたに仕えることを教えてください。見返りを求めず与え、傷を恐れず戦い、休みを求めず労し、報いを求めず働いて、御心を行うことに満足することができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 エレミヤ書 20章7節‐13節 (旧)1214頁
エレミヤの告白
20:7主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。
8わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。
9主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
10わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
11しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく/甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこしえの恥辱である。
12万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
13主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。
第二日課 ローマの信徒への手紙 6章1節b‐11節 (新)280頁
罪に死に、キリストに生きる
6:1b恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
福 音 書 マタイによる福音書 10章24節‐39節 (新)18頁
10:24弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。25弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
恐るべき者
26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
イエスの仲間であると言い表す
32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
平和ではなく剣を
34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、/
娘を母に、/
嫁をしゅうとめに。
36こうして、自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
7. 説教 「逆転の神」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
キリストは、「人々を恐れてはならない。」と語られます。このようにキリストが語られるということは、私たちは何かしらの「恐れ」に憑りつかれているということです。そういう現実を生きねばならない私があるということを浮き彫りにされます。
では、私たちはどのようなことに恐れを覚えているのでしょうか。それは、キリストご自身、神の御ことばを語ることではないでしょうか。宣教という使命を与えられながら、私たちは押し黙ってしまっています。何故ならば、キリストを証しすること、それ自体に恐れを抱く者だからです。
こうして礼拝など教会の中で、同胞と共にあるときは、キリストについて、その恵みや喜びを分かち合い、語りあうことができます。しかしながら、一歩、教会の外へ出ると私たちは、その口を閉ざしてはいないでしょうか。
エレミヤは、御ことばを世に示すが故に苦悩する人間の姿を克明に表現しています。
「わたしには聞こえています/多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。」
エレミヤは、祖国の人々に対して、悔い改めなければ滅びが訪れるということを語り続けました。しかしながら、人々は神の民である自分たちが滅びるなどとは考えもしていません。しかし、実際は、信仰的にも退廃し、他の神を崇拝するような王まで現れています。この民の姿に対して、神は「災いと大いなる破壊が北から迫っている。」というような預言をもって度々警告しています。
しかしながら、人々は聞く耳を持たず、その結末は、バビロンによるイスラエルの滅亡でした。エレミヤは、神から祖国が滅びるということ、人々が神から裁かれるということを語らねばなりません。大きな苦悩があります。このことを語れば語るほどに人々からの反感と憎悪を買っていきます。それ故に、彼は捕らえられ、命の危機を幾度となく経験しなければならなかったのです。
今日、第一日課読まれた箇所は、そのような受け入れ難い預言を語るエレミヤが捕らえられ、打たれ、拘留された直後に語られている御ことばです。神の御ことばを語れば語るほどに、迫害を受け、嘲笑され、拘留されるというのは、不条理を感じずにはいられません。
世に向けて神の御ことばを語り掛ける時、そこには対立を生むのです。キリストご自身も「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と語られています。キリストの働きは、私たち人間を罪の内から引き上げ、救うことにあるはずです。しかしながら、キリストが「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と語るのは何故なのでしょうか。
それは、キリストの御ことばに対して世の権威、また人々から崇敬の念をもって見られているような知識人、上流階級の人々にとってキリストの言葉はまさに剣だったからです。今まで自分たちが築き上げてきた論法や、方法を真っ向から否定されることを良しとは誰も思いません。ましてや、その恩恵に与り、綺麗な服を着て、食うに困らず、人々から羨望の眼差しを向けられている人々にとってみれば、その立場が危ぶまれるような言説や行動を良く思わないのは当たり前です。
翻って私たちの社会にもそのような場面が様々なところで見られます。例えば北海道で政党の演説中に抗議を示し、声を上げた人々が、権力によって排除されたのは記憶に新しいことです。私たちは本来であればその言質には配慮をしなければなりませんが、基本的には言論の自由、権威者に対して異論を訴えることは権利として有しているにもかかわらず、その場面では都合の悪い声が消されていきました。
また、いま私たちは新型コロナウイルスの渦中にあって、「新しい生活様式」などという言葉を耳にします。厚労省は42項目を提示して啓発しています。たしかに感染拡大は防がなければなりません。しかしながら、それをこうしなければその生活は正しくないと言われているような気さえしてきます。
そうして、これらのことをできない人々は、糾弾され、けしからんと言われるような社会を生み出しています。これを守れない人々は社会から孤立し、断絶されています。果たして、新しい生活様式がもたらす事がらに私たちは注意深くなくてはなりません。
いずれにしてもキリストのこの剣によって、世には対立が起こり、不和が起こりました。まるで神の御心とは逆の現象が世に生じたように思わされます。しかしながら、それこそがキリストの御心であり、働きだったのです。世で、当たり前と思われていること、言論、行動規範、権威、立場は、本当に神の御心なのかと問うているのです。
エレミヤもキリストも世に剣をもたらしました。しかしながら、その背後には、私たちの世が、そして私たち自身が神の御心に沿えてない現実を浮き彫りにしようとする神の働きがあるのです。私たちは、この御心に聴いていく、いつも注意深く自分自身が、社会が本当に神の御心に沿って歩んでいるだろうか、絶えず神への問いかけを繰り返しながら生きるように御ことばは語り掛けているのです。
時にそれは冒頭に述べたように恐れを伴います。批判、糾弾、差別、断絶、孤立していくかもしれません。事実、キリストは、この只中に落とされ、独りで十字架の死に与りました。世の人々は勝利を確信しましたが、むしろキリストの勝利でした。この死によってすべての人が救われたからです。エレミヤやキリストがもたらした剣の背後には、神の救い、栄光、真理が示されています。
だからこそ、私たちにキリストは「恐れるな」と語り掛けるのです。神の御心に真に聴き従い、主を主と告白する時、私たちは、キリストの死と復活に与り、神の御心を世に顕し、平和を齎す者とされるのです。神の逆転が起こるのです。世の常識にではなく、「神に対して生きている」ことこそが真に人を生かし、平和と一致を実現するのだということを知るようになるのです。
ですから、恐れず私たちは語らなければなりません。教会を出たら口を閉ざすのではなく、神の御ことば、神の御心に信仰によって真摯に耳を傾け、たとえそれが世に憚れる事がらであっても、遣わされた場で、人々のもとで語り、行動するのです。
むしろ神からの信仰によって私たちはエレミヤが語るように「主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」という境地に達し、語らずには居られない、行わずにはいられなくなるのです。全ての人が神に対して生きる喜びに導かれるように願わずにはいられない。声を上げずにはいられないそういう熱情が御ことばに聴く時に起こるのです。
神の逆転とは、極めて信仰による出来事です。世の常識によるならば、それは剣です。しかしその背後に隠されている世の破れ、人間の罪深さ、神の救いという真実を露にします。この御心に与っていることを覚え、宣教の歩みを決して止めず、たとえ孤立したとしてもそこに居ます神の御心に聴く信仰をもって恐れず語り、行動し歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 献金
10. 教会の祈り
11. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
12. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン アーメン アーメン
13. 讃美歌 259番 (1節)

14. 後奏
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