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6月27日(聖霊降臨後第5主日)の式文と説教

主のみ名を賛美いたします。


23日は沖縄慰霊の日でした。司令部の軍人が自決をし、組織的戦闘が終結したという経緯で制定された日です。しかし実際は、その後も米軍による掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、降伏調印式が行われたのは9月7日でした。

4月2日の連合国軍上陸から始まった沖縄戦で沖縄の人々は20万人を数え、連合国軍側も2万人以上の人々が亡くなりました。また、この20万人の中には、本土から徴兵され配属された兵士も含まれていますし、当時のアジア支配によって日本に連れてこられた大陸の人々も含まれています。

すなわち、沖縄戦は私たち本土に生きる者にとっても忘れてはならない出来事なのです。

誰もかれもが戦争という罪によって尊い命を失い、76年を数えて今なお沖縄は戦中、戦後のままです。


昨年、新型コロナが大流行する前のギリギリのタイミングで沖縄を訪れる機会を運よく与えられました。沖縄平和祈念公園や多くの人々が隠れていたガマ、普天間基地、嘉手納基地、辺野古の基地建設をしている現場を見てきました。

沖縄の方の雇用の一部となっている基地での仕事があることも知りました。沖縄の人々の生活を守る仕事が基地によってあるというジレンマを感じずにはいれませんでした。


また辺野古の海を埋め立てる土は、同じ沖縄の土が使われています。しかしその土は今もなお沖縄戦によって亡くなった方の骨が埋まっている土地を掘り返し、運ばれてきている土なのです。

政治的な思惑、国際事情ということではなく、戦争によって亡くなった方々の骨が、戦争の道具である基地の建設のために使われることを恥ずかしながら初めて知りました。基地建設に反対している人々は利権というよりも、沖縄戦の犠牲者の方々の埋まる土が使われていることに憤っているのだと実感しました。


平和を実現するためにわたしたちは召されています。それはただ神の愛を尊び、愛し合っていくということも大切ですが、時には怒らなければならないと思うのです。

目の前で繰り広げられている事象が愛でないのであれば、憤り、怒ることは大切なのです。愛のゆえに怒る、憤るということを教えられた、そのような沖縄体験でした。

そして、76年前にあった事実を見つめ、忘れず、これからも語り伝え、愛の実践に励んでいきたいと思うのです。

ユーチューブから礼拝の模様を配信いたします。10時20分からライブ配信を開始します。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。



新しい一週間が守られますようにお祈りしています。


在主


牧師


聖霊降臨後第5主日


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

 全員)憐れみ深い全能の神様。あなたの民の祈りを聞いてください。あらゆる 危害から私たちを堅く守り、信仰と希望のうちに私たちを成長させてくだ さい。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 哀歌 3章22節‐33節 (旧)1289頁

3:22主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

23それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。

24主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。


25主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。

26主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。


28軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。

29塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。

30打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。


31主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

32主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。

33人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。


第二日課 コリントの信徒への手紙二 8章7節‐15節 (新)334頁

8:7あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

8わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。10この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。11だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。12進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。13他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。14あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

15「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」

と書いてあるとおりです。


福音書 マルコによる福音書 5章21節‐43節 (新)70頁

ヤイロの娘とイエスの服に触れる女

5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


6. 讃美歌


7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


哀歌は、エレミヤ書の後に配置されています。何故かと申しますと、これはエレミヤの預言者としての歩みにおける苦難の道を歌ったとされているからです。エレミヤは、イスラエル滅亡の前夜から、エルサレムの炎上、そしてバビロン捕囚まで長い間、同胞の民たちの苦しみをつぶさに見つめながら神の御ことばを宣べ伝え続けるという大きな苦難に満ちた歩みを行かねばなりませんでした。そのようなエレミヤの思いを代弁しているのが哀歌だと言われています。


そのような歩みを神から強いられたエレミヤですが、その神が示された召しを全うしていきました。時に命を狙われ、そして、同胞たちが神に悔い改めることなく滅びへと向かう姿を見つめるという残酷な現実を生きなければならなかった彼がどのようにしてその召しを全うすることができたのか。その答えが今日の第一日課に示されています。


3:22主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。

32主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。

というそれぞれの言葉には、神の憐れみと慈しみに対する絶対的な信仰が見て取れます。このような複雑で、悲しく、残酷な歩みであろうとも、必ず神の慈しみと憐れみが在るという信仰に生かされながら、強くされているのです。人の思いに支配されてしまえば乗り越えることのできないような痛みや悲しみを負うことでしょう。神を疑い、神を非難しても可笑しくありません。それでも彼は「主の憐れみは決して尽きない。」と信じるのです。それは彼に対してもですし、イスラエルの民にも向けられている神の御心だということです。


なぜそのような信仰に生きることができるのかと言うならば「25主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」と歌われている通りです。主に望みを置くものが幸いを得るのです。この世の栄華や、権威、威力、富にではなく、神に望みを置く、言い換えるならば神を信じる信仰こそが真の幸いをこの私に与えるのです。


エレミヤはそのことを知っていました。たとえこの世的に自分の語る言葉が神からの言葉であり、それをイスラエルの民が受け入れないとしても、神の慈しみと憐れみがあり、神の幸いが人間に与えられる、すなわち救いの神が臨まれるということを固く信じる信仰によって生かされ、苦難の預言者として生きたのです。


それは、今日の福音においても同様です。ヤイロの娘は、彼が「生きるでしょう」とあるように、生きながら死んでいるような状態でした。「生きる」という言葉はギリシャ語から紐解きますと「命」という言葉が元になっている動詞です。すなわち、娘は「命のない」状態だったのです。生きながらに死んでいる。それは本人は昏睡状態ですが、客観的に見て幸いとは思えない状況です。ましてや家族にとって愛する娘がそのような状態にあることは大きな苦しみがあります。


また、長血を患っている女性にしても同様です。彼女はその病のゆえに、自分が信仰するユダヤ教という枠組みの中では罪人として人々から見られていました。レビ記15章25節に「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。」とあるように汚れた存在として人々から避けられ、生きながらにして死んだような存在として扱われ続けてきたのです。


何よりも自分自身もそのことをいつまでも痛感しながら生きねばならない。まさに生きながらに死んだ存在として在るということほど辛いことはありません。このまま生きていても、死んだとしても汚れたままですから神の救い、慈しみ、憐れみに与ることなど一生叶わない、生きるにしても、死ぬにしても神の救いの御手から漏れている者であるという肉体的よりも深く、心を抉り、痛みを伴う歩みだったのです。


そのようにされている人々に対し、キリストは長血の女性に対してそうであったように探してくださっています。そして、信じ求める者のところに赴いてくださっています。キリストを信じ、行動を起こした者に神は憐れみを向け、慈しみ、癒しを与えてくださっています。この長血の女性に向けられたキリストの言葉を釜ヶ崎で活動されている本田神父は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」という箇所を「むすめよ、信頼をもってあゆみを起こしたことが、あなたを救ったのだ」と訳しておられます。


そして、死に瀕した娘に対しては「「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」」と語りかけました。死の内にあるもの手を取り、「起きよ」と命じられるとたちまちに娘は起き出して歩いたとあります。驚くべき奇跡です。誰もが絶望し、悲しみに暮れる。誰も抗いようのない死の力にキリストが勝利されたのです。「起きよ」という言葉は、ほかに聖書では「復活」とも訳されています。


まさにキリストの救いの御業の真理が示されています。死から命へと導く方。それがイエス・キリストです。死を滅ぼし、命を与えたもう方がキリストであるということが示されているのです。

「25主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。」という神への信仰の賛歌は、エレミヤだけのものではなく、私たち人間すべてに与えられている信仰によって示される希望です。私たちは、死ぬのではなく、神によって生きる者とされる。命のある者とされるのです。


この豊かな神の命に私たち一人一人は生かされているのです。死んだように生きるのではなく、キリストへの信仰により命が溢れ、活気に満ち、神の慈しみ、憐れみによって生きる。

パウロは「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」と語っています。それは、キリストが私たちのために死ぬことによって、私たちが命を得ることを示します。十字架の救いがそれです。


この恵みの交換。しかもキリストは何も得をしません。しかし、この喜びの交換によって私たちは希望、愛、慈しみ、憐れみという満たしを与えられています。そうであるならば、私たちは誰もがこの神の豊かさに生かされているのですから、この豊かにされた命を隣人のために、隣人が生きるように用いていきたいと思うのです。それが宣教です。


「自分が持っているものでやり遂げることです。」と語られているように、それは今、自分が与えられているものを十分に活かせばいいのです。他者と比べる必要はありません。今、あなたがたの命は、間違いなく神の満たし、神の豊かさに溢れているのですから、人の目、物差しは関係ないのです。真の幸いへと導いてくださる方、真に人を生かし、喜びと希望にあふれさせる方はキリストただお独りである。この福音をご一緒に宣べ伝えてまいりましょう。

キリストを信じる信仰が、私たちを死から命へと復活させ、生き生きとさせ、希望に溢れさせてくださることを心に覚えながら、遣わされたところで神の豊かさを分かち合い、宣べ伝えながら新しい一週間を歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦し みを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死 人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右 に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。2 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、 からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10.教会の祈り


11.主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

    み名があがめられますように。

    み国が来ますように。

    み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

    私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

    私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください。

    私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

    (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

    (アーメン)


12.祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。

 会衆) アーメン。アーメン。アーメン。


13.後奏

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