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6月28日(聖霊降臨後第4主日)の礼拝と説教

28日の礼拝は、西宮教会、神戸教会の講壇交換となります。

竹田牧師は、神戸教会で奉仕です。西宮教会は乾牧師からご奉仕いただきます。

フェイスブックの中継は、神戸教会からお送りする予定です。



説教については、竹田牧師の説教全文を記載しています。ご了承ください。


礼拝式文 聖霊降臨後第4主日   2020年6月28日(日) 1.    前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)  2.    祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン  3.    キリエ  司式)主よ、憐れんでください。    会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。   会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。    会衆)主よ、憐れんでください。 讃美唱 詩編89編2節‐5節、16節‐19節 89:2主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。 3わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」 4「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った 5あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」  16いかに幸いなことでしょう/勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。 17絶えず、御名によって喜び躍り/恵みの御業にあずかって奮い立ちます。 18あなたは彼らの力の輝きです。御旨によって、我らの角を高く上げてください。 19主は我らの盾/イスラエルの聖なる方は我らの王。  司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、 会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン 4.    主日の祈り 全員)神様。あなたは私たちを恵みによって導き、正義と憐れみの御言葉により世界を造り直してくださいます。御言葉を受け入れ、互いに仕える民へ私たちを形づくってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 5.    聖書朗読 第一日課 28章5節‐9節 (旧)1229頁 28:5そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。6預言者エレミヤは言った。 「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。7だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。8あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。9平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」 第二日課 ローマの信徒への手紙 6章12節‐23節 (新)281頁 6:12従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。13また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。14なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。 義の奴隷 15では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。16知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。17しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、18罪から解放され、義に仕えるようになりました。19あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。20あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。21では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。22あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。23罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 福 音 書 マタイによる福音書 10章40節‐42節 (新)19頁 10:40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

6.    説教 「報酬があるからではなく」 竹田 大地牧師


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

エレミヤは「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」と語っています。この場面は、エレミヤとハナンヤという祭司が対決した場面です。ハナンヤは、迫る脅威であるバビロンに対して、イスラエルが勝利するという言葉を民に語ります。

しかしながら、エレミヤは先週もお話をしましたが、エルサレム、イスラエルの滅びを預言し続けます。ハナンヤの言葉は、民たちに受け入れられたことでしょう。人々は、何であれ耳に心地の良い言葉を好みます。それは、偽預言に限ったことではなく、世の為政者たちも、そのようにして人々に語り掛けます。

人の弱いところは、厳しい言葉ではなくて、自分にとって安心する言葉を望みます。人は、そういう誘惑に対して弱いとも言ってよいでしょう。しかしながら、神が私たち人間にいつも迫っていることは、「あなたは罪人である」という現実です。それはキリストも同様です。私たちは、罪人でしかないという現実をまず受け入れなければ神の御ことばを本当に受け入れることはできないですし、何が神の御ことばなのかも見分けられないと言ってもよいでしょう。

ハナンヤの預言はたしかに人々に勇気を与え、平安を与えたことでしょう。しかしながら、それは一時の平安に過ぎません。何故ならば、この言葉には、神がなぜ人間を救い出したかというプロセスが抜けているからです。ただ耳に心地いい言葉を並べるだけで救われるならば神など必要ないと言ってもよいでしょう。

しかしながら、私たちの信仰の基であるキリストの十字架の死は、私たちに罪があるにもかかわらず、まったく罪の無い方であるキリストが、私たちの罪を担い死なれたということにあります。すなわち、先ほども述べましたように私たちは罪人であるという現実を見つめなければならないのです。

私たちは誰であれ、自分が罪人であるという痛みを通過しなければならないのです。キリストの十字架のキリストは、人々の目には決して麗しい姿ではありません。そこには痛みがあります。しかもそれは、私たちを救いたいと強く願うがゆえに負われた痛みです。神が私の罪の故に、私たちに深い憐れみと愛を抱き、痛んでくださっているのです。

その痛みによって、私たちは救われました。そうであるならば、痛みの伴わない耳に心地いい預言の空しいのは明らかです。ハナンヤの言葉が、実は真の神の御心でないことが分かります。まず神が痛まれたように私たちも自分自身の罪深さ、神の裁きのもとにあるという現実に深い痛みを覚えるのです。

そうして心からの悔い改めをもって、神の御ことばに聴き従うのです。それがたとえ私たちにとって耳心地の良くない言葉であったとしても、神の御ことばを受け入れ、信じるのです。それがなかなかできないという自分自身の弱さを受け入れなければなりません。ペトロもキリストの十字架の死と復活を信じることができませんでした。

そういう信仰の弱さ、神の御心に聴き従えない弱さを露呈しながら、この弱さを憐れみ、御自分のものとし、深く命に突き刺さる痛みをもって耐え忍ばれ、十字架の死を遂げたキリストの恵みを思い起こしたいと思うのです。この痛みをもってキリストは、私たちを罪の奴隷から解放し、自由にし、私たちに神の義の恩寵を与えてくださいました。

私たちは痛まなければなりません。そして、心からの神への悔い改めを神はいつも私たちに語り掛けています。罪人である自分自身を受け入れ、神から与えられる信仰によって聴くのです。そのことによって起こることは、たとえ神の御ことば、キリストの御ことばが耳に心地よくなくとも、その御ことばに隠されている深い神の憐れみと愛とを見出すのです。

エレミヤ書31章21節には、そのことを現す言葉が記されています。文語訳の方が伝わると思いますので、ご紹介いたします。

「ヱホバいひたまふエフライムは我愛するところの子悦こぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念(おも)はざるを得ず是(ここ)をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必らず彼を恤(あはれ)むべし」

神の御ことばのすべてには私たちへの憐れみ、すなわち愛が示されています。たとえ私たちにとって受け入れ難い御ことばであっても、それを受け入れる時、私たちは報いを受けるのです。神の御ことばを受け入れたエレミヤの時代の人々は、たしかに祖国がバビロンによって滅ぼされる姿を見なければなりませんでした。

しかしながら、「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」とあるように、バビロン捕囚という長く険しく、自分たちを刺し貫く痛みによって、神の御ことばに聴き従い、悔い改め、受け入れていく恵みを見る者とされました。

この時エレミヤが語った神の御ことばの背後に隠された神の救いを見る者とされました。ですから、私たち自身も神の御ことばこそが真に私たち一人ひとりを救いへと導くのであるということを覚えながら、そこから語られる悔い改めへの導きに従い、私たち自身も罪人であることの痛みを十分に受けたいのです。

そして、この罪人を憐れみ、受け入れ、十字架の死と復活によって、罪の奴隷から解放してくださった方が私たちに与えられている恵みと喜びを受け取ってまいりましょう。神の痛みの極みである十字架の死に隠された栄光と恵みを豊かに受け入れ、受け取る信仰が与えられている恩寵を心に刻みながら、新しい一週間も神の御ことばを受け入れることの喜びを覚えて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 7.    信仰告白 司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン) 8.    献金 9.    教会の祈り 10.         主の祈り 司式)祈りましょう 全員)天の父よ。 み名があがめられますように。 み国が来ますように。 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、 私たちの犯した罪をお赦しください。 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。) (アーメン)

11.         祝福 司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。 会衆)アーメン アーメン アーメン

12.         讃美歌 536番 (1節)


13.         後奏

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