「赦された者の行い」
主日の祈り
すべての民の主なる神。あなたはあなたの民にみ心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました。私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行なうために、あなたの強い力で支えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩篇 32:1~11
いかに幸いなことでしょう。
∥背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう。
∥主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
わたしはひたすら沈黙して、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
∥み手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
∥わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう。」
そのときあなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。
あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間に、あなたに祈ります。
∥大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。
∥救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。
わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。
∥あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
分別のない馬やらばのようにふるまうな。
∥それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたは近づけるな。
神に逆らう者に悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
∥神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
本日の聖書日課
第1日課:サムエル記下11章26節‐12章13節(旧)496頁
11:26ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。27喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。
ナタンの叱責
12:1主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。2豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。3貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。4ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
5ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。6小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」7ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、8あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。9なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。10それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』11主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。12あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
13ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
第2日課:ガラテヤの信徒への手紙2章11‐21節(新)344頁
パウロ、ペトロを非難する
2:11さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。13そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
すべての人は信仰によって義とされる
15わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。17もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
福音書:ルカによる福音書7章36‐50節(新)116頁
罪深い女を赦す
7:36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日の福音は、ファリサイ派の人に招待された食事の席で罪深い女がイエスの足を香油と涙で拭い、罪を赦した場面です。非常に美しい場面です。イエスが罪の赦しの権威を持っている、神の威光を有している方であることを顕している場面でもあります。そのような福音が与えられた今日、神が私たちに伝えようとしている御心とは何かご一緒に聴いてまいりましょう。
さて、今日お読みした第一日課のダビデの態度と、福音に登場するファリサイ派シモンの態度には共通する点があります。まず、ダビデに注目してみますと、彼は王宮の屋上を散歩している時、バト・シェバが水浴びをしているのを見て、彼女がウリヤという部下の妻だと知りながらも、彼女を召し入れ、床を共にし、彼女を身籠らせたのでした。そこでダビデはウリヤを激しい戦いの最前線に送り、ウリヤを戦死させようと画策し、そのようになったのでした。そうして、喪が明けてから、バト・シェバを妻にし、男の子が誕生したというのが今日の事の次第です。しかし、それは「主の御心に適わなかった」のです。すなわち神の御前に罪を犯したということです。
そのような仕打ちを行ったダビデに預言者ナタンが彼を糾弾し、叱責した場面が今日の第一日課です。ナタンは譬え話でダビデを叱責します。ダビデは、その事がらについて「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」と答えます。何とも愚かな姿がここに映し出されています。ナタンが言うようにこの男はダビデ自身だからです。ダビデは、自分が神の御前に犯した罪について全く気が付いていないのです。「そんなことをした男は死罪だ」と断罪していますが、この言葉が出てきたということは、ダビデ自身は神の御前において自分は義しい者であるという思い上がりがあったことが見受けられます。
さて、福音に登場するファリサイ派シモンは、どうでしょうか。彼はイエスを食事の席に招き、共に食事をしていました。そこへやってきたのは罪深い女でした。彼女に罪があるということは、彼女が触れる人、物もその汚れが移って、ある意味では他者に危害を及ぼすと考えられていました。シモンはファリサイ派でしたから、律法を一字一句守り生活をしています。そんな女性とは関わりたくもないと考えていたでしょう。神の前に義しくあることが彼にとってのアイデンティティだったからです。そのような考えに染まっているからこそ彼は「「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思ったのです。
この思いに至る背景には、ダビデ同様に彼自身もまた神の御前において自分は義しい存在であるという自尊心です。だからこそ、この罪深い女を心の中で断罪し、軽蔑し、排除しようとしているのです。ダビデも「そんなことをした男は死罪だ」と罪ある者をシモン同様の扱いをしようとしています。自分が義しい者であるという自尊心、自負において起こる事がらは、人を謙遜と挺身へと導くのではなく、彼らのように尊大、横柄な態度へと至らしめるのです。我こそが正義であると考えている人に、謙遜に溢れ、挺身をしている人は見たことがないのはそれです。今の政治の上に立っている人々は、まさにそのような姿を取っているように思えてなりませんし、彼らもまたナタンのような人に叱責されてもそれに気づくことはできないでしょう。
しかし、罪深い女は、イエスが救い主であることを信じ御前に進み出て、自分の罪の重さと、その罪に対する深い自覚と共に、真に謙り、主イエスの足を拭い、香油を塗ったのです。しかも彼女は「後ろから」イエスに近づいたとあるように、その事がらを隠れて行ったということです。
そこに在る思いは、罪人のされることを神は喜ばれないという神への真の畏れがあったのです。普通であれば、罪人が他人に触れて、その様な行いをするということは、社会常識として考えられないことです。しかし、彼女はイエスこそが救い主であるという信仰に立ち、罪人は、罪人らしく生きろという社会通念を打ち破って、イエスのもとにやって来たのです。
やって来たはいいけれども、真正面に立つのではなく、罪人のすることですから、隠れて、目に留まらないように、密かに行うという真の謙遜と挺身をもって、神のみ前に臨んだのです。けれども、彼女は香油をイエスに注ぐことによって、イエスこそが救い主であるという信仰告白をしたのです。救い主とはヘブライ語で「メシア」と言いますが、それは直訳するならば「油注がれた者」という意味です。ファリサイ派シモンも、弟子たちも「同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。」とあるようにイエスがメシアであるとは、この時、誰も気づいていませんでした。しかし、この罪深い女は、神への信仰によって、イエスの姿にその御心を見出していたのです。
イエスこそが、この罪深さから救い出してくださる方であるという確信を抱いていたのです。だからこそ、後ろから近づき、足を涙で拭い、香油を注ぐという大胆な行動をなさしめたのです。社会通念ではありえないことでした。しかし、彼女の信仰が、その通念を打ち破り、罪人であるけれども、神の救い、すなわち罪の赦しに対する感謝を満願の献げ物を通して示したのです。
自分が義しい者と思っていたシモンに、イエスは私の足を洗う水すらくれず、接吻の挨拶もしてくれなかったと糾弾します。足を洗う水は、主人が外から帰って来た時に僕が用意し、主人の足を洗う行為であり、接吻とは和解のしるしでもあると考えられていました。
つまり、シモンは、神を信仰している、しかもファリサイ派という自尊心から神との関係において義しいという思いがありました。だから神との和解は必要ないし、望むべくものでもないと考えていたことでしょう。また、神よと呼ばわりながら、自分が義しいと考えていたのですから、僕の姿を取ることもしなかった思い上がりがここに露わにされているのです。
私たちは須らく罪人です。自分自身の罪に気が付いていようとも、むしろ私たちはダビデ、シモンのように気が付かずに犯した罪の方が多いわけですが、いずれにしても神の赦しが無ければ、生きることもできない存在であるということを覚えていくことは大切な在り方です。私たちは神の赦しの内に生かされています。それは言い換えるならば罪人をも愛するという神の御心の内にあるという証しでもあります。
詩編32編の詩編作者は「いかに幸いなことでしょう。/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。/いかに幸いなことでしょう。/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」と謳い、さらに「「わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう。」/そのときあなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」と神の赦しの内に生かされていることの喜びを讃美しています。この讃美の声は、神への信仰が与えてくださった賜物です。
パウロが「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるもの」だと証ししているように信仰こそが、私たちが肉においても、霊においても喜びをもって生きることができる源なのです。今日、私たちは、神に赦されている、愛されている、大切な存在として御心に留められている喜びを、福音を通して与えられる信仰によって受け取っています。詩編作者、パウロがそうであったようにこの喜びを与えられている一人の罪人であることを心に刻み、神を讃美しながら歩んでまいりましょう。これからも皆さんの命に神の愛、赦しの喜びが豊かに在りますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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