讃美歌について書かれた大塚野百合先生の「賛美歌・聖歌ものがたり」(創元社)を最近読み始めました。まだ16章の内の2章の半分くらいまでしか読めていません。
さて、皆さんも讃美歌はなじみ深く、愛唱されている曲もいくつかあることと思います。
この本の2章に、日本国家である君が代はもともと「小学唱歌集」という歌集の曲を元に作曲されたとあります。
そして、この君が代の原曲はイギリスのS.ウェーバーという人が作曲し、ルーサー・メーソンという人が編纂をした曲だそうです。
この曲は讃美歌として外国で用いられ、3人の人が歌詞をつけているそうです。
その一人が19世紀スコットランド最大の讃美歌作家であったホレイシャス・ボナーという人でした。
彼は「スコットランドに霊的命を吹き込むために、長老教会を改革して自由協会を設立した偉人」だそうです。
当時「小学唱歌集」は厳しい検閲がありましたが、曲について門外漢である人たちにそのルーツなど分からなかったのではと大塚先生は書いています。
まさか日本の国歌である君が代の原曲(小学唱歌集初版に収録の君が代)の原曲(S.ウェーバー作曲/メーソン編曲)が讃美歌だとは思いもよりませんでした。
もし、このことが分かっていれば、小学唱歌集にも掲載されていないでしょうし、現在の国歌にもなっていなかったと思うと不思議ないたずらもあるものだと思わされました。
新しい発見をすることはいくつになっても楽しいことです。
本はそんな発見をたくさんもたらしてくれます。コロナになって本を読む機会が以前にも増して格段に増えました。
コロナで社会や家庭様々なところで閉塞感を覚えますが、本を読んだり、散歩をしたりしながら、小さな発見を楽しんでいきたいものです。
西宮教会は礼拝の公開自粛を6月20日まで継続しています。
自粛期間の延長は大変残念なことですが、どうぞそれぞれのところで引き続き主日の恵みに与ってまいりましょう。
パソコンが壊れてしまいましたので、先週に引き続いてフェイスブックで配信をいたします。10時15分頃にから配信を開始いたします。
お手数をおかけしますがインターネットで「フェイスブック 日本福音ルーテル西宮教会」と検索していただくか、下記のリンクからご覧ください。
日本福音ルーテル西宮教会 | Facebook
また、礼拝後には速やかにYouTubeに礼拝の録画を掲載いたします。どうぞそれぞれのご都合のよろしい時に用いてください。
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礼拝式文 聖霊降臨後第2主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう) 2. 祝福の挨拶 司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン 3. キリエ 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。 司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。 司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。 4. 主日の祈り 全員)力あふれる神様。あなたは御子イエス・キリストによって死を命に、敗北を勝利に変えられました。主を信頼し、キリストの力をいただいて、あらゆる悪に打ち克つことができるよう、私たちの信仰を増し加えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン 5. 聖書朗読 第一日課 創世記3章8節‐15節 (旧)4頁
3:8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、9主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
10彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
13主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
14主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
第二日課 コリントの信徒への手紙二 4章13節‐5章1節 (新)329頁
4:13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
信仰に生きる
16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
5:1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
福 音 書 マルコによる福音書 3章20節‐35節 (新)66頁
ベルゼブル論争
3:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
イエスの母、兄弟
31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
6. 讃美歌 161番
7. 説教 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
罪によって私たちに齎されることは何でしょうか。私たちの信仰においてこの罪を認識するということは、とても大切な事です。それは言わずもがなルーテル教会に集う私たちにとっても重要な事です。ルターの宗教改革の発端となった95箇条の提題の第一提題には「1. 我らの主なる主人、イエス・キリストが言われた、「悔い改めよ、」(マタイ、4:17)彼は信者の個々人の全体の命の悔い改めを旨とされた。」と書かれています。
私たちの信仰のあり様についてルターはまず自分が信仰者であるならばキリストの「悔い改めよ」というご命令に自分の全存在を投げ打って従うべきであると語るのです。まず信じるということではなく、信じることの内実をまずしっかりと見つめることをルターは訴えています。それほどまでに神を信じる上で自分自身の罪を悔い改めていくことは重要なのです。
ですから、私たちが神を信じるということは、あらゆる負の感情や思いをもたらします。まず、自分を見つめ神との関係においていかに破れているか、そして破っている当事者は神ではなく自分自身であるということ。そして、この破れによって私は神の裁き、神の救いから漏れている存在である現実を突きつけられるのです。このような状態をキリスト教では罪人と称します。
そして、今日の第一日課での男と女の堕罪の後の様子を記した御ことばにも明らかなように、人間は自分の罪に気がついた時、神から逃走を図り、隠れるのです。隠れたところで、自分が罪人であるという現実は変わらないのにも関わらず、人間は愚かにも神から逃れられると考え、また同時に神と対峙することに恥を覚えるのです。創世記では裸であることを恥じていますが、これは言い換えるならば罪人である自分を神のみ前に晒すことを恥じている人間の姿を映し出します。
そして、何よりも大きなことは、神を恐れるのです。神の峻厳なる裁きが確実に、間違いなく自分に下されるという現実、それは自分の命が無いということを人間は、罪の認識によって深く自覚せざるを得ないのです。この現実を前にして神から隠れることしかできない、しかも隠れ切ることなどできないことを分かっていながらです。罪によって芽生えることは自分の命すらも惜しくなるという現実です。
先に申し上げましたように私たちが神との関係において破れをもたらしました。にもかかわらず、その破れを恐れるのは人間の方であるというのはいかに人間が愚かであるかということを浮き彫りにします。しかしながら、ルターは95箇条の提題において一番に提示したことは、この罪を見つめること、そしてそれを悔い改めていくことが信仰者の真実の姿であると語るのです。
なぜそのように語るのか。それはルター自身、またパウロがそうであるように「14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知って」いるからです。すなわち、復活の主イエスの恵みに与っていることへの絶大な信仰と、その信仰によって与えられる確信に基づいているのです。
また、「17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」と語られているように、尚、この世で歩んでいく限り私たちは日々、神に対して罪を犯し続けます。それを日々悔い改めて生きていく、それが私たちの命の営みです。罪を見つめる毎に、認識する毎に、私たちは絶望を抱えるでしょう。救いに与ることのできない存在である真実に不安と恐れを覚えることでしょう。
しかしながら、それでもなお、復活の主イエスを信じる信仰、全てを悟らせてくださる聖霊のみ力と導き、父なる神の愛が「永遠の栄光」をもたらすという希望を与えるのです。私のこの命の歩みは暗闇を歩むものではなく、神の栄光に照らされている。そして、それは何故かというならば、キリストが私たち一人ひとりの罪を負ってくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。
主日の祈りで「御子イエス・キリストによって 死を命に、敗北を勝利に変えられました。」と祈った通りです。罪、悪は創世記の記事にあるように神と敵対するものとされました。そして、それらの力に人間は勝ることは到底できません。
私たちは常に罪、悪と対峙し負け続けているのです。
そのような弱く乏しい私たちのためにキリストは来られました。福音に「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と語られているように、キリストは何にも勝って、強い方であることを明らかにしています。
すなわち、それはキリストが罪や悪に勝る方であり、この勝利によって私たちは神の救いという恵みに与る者とされているのです。「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」とあるように、私たち一人ひとりの罪がキリストによって赦されるという真理を私たちに伝えています。
それは今日のために与えられている詩編29編の中に「3主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。4しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」とある通りです。罪があれば誰もそれに耐えることはできません。罪の力にも、神の裁きを前にしても私たちは無力です。
そのような私たちの真実に対して神は深い憐れみと愛をもって臨んでくださり、赦しを与えてくださる。そうであるならば、私たちはやはり自分の罪をしっかりと見つめながら、赦し主である神に悔い改めていくことは大切な信仰者のあり方であることを改めて思わされるのです。そして、その内実が示すことは、神を信じる信仰が私たちを救いへと導き、悪に打ち勝つ方を通してその喜びと希望に与り、滅びではなくキリストと共に「わたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」ことへと帰結するのです。
私たちの命は私自身の罪によって本来死へと向かい、滅びるという道しか示されていませんでした。しかし、今やその力に勝利してくださったキリストが共に居られます。そして、この恵みを深く悟らせてくださる聖霊のみ力が働き、愛である父なる神を信じる信仰へと導いてくださっています。この神を信じる信仰が与えられている恵を覚えて希望のうちに歩んでまいりましょう。
パウロはキリスト教に対する大迫害の中で、その苦難や艱難を「17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」とハッキリと証ししてのけます。私たちも今コロナウイルスによる苦難、艱難の只中にありますが、信仰によりこの確信を与えられていることは間違いありません。
「見えないものは永遠に存続する」もの、すなわち神の愛と赦しの内に、罪人であるにも関わらず、死ぬべきものであるにもかかわらず永遠に存続するものを受け継ぐものとされている神の御業を覚えて歩んで参りましょう。今も共に生きて働き、守り導いて下さる聖霊と主キリストが居られることを覚えながなら新しい一週間の始まりの日、希望をもって雄々しく一歩を踏み出し、それぞれの遣わされるところへと出かけて参りましょう。
皆さんの上に神の愛と赦しの恵みが豊かにありますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白(起立)
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 献金
10. 教会の祈り
11. 主の祈り (起立)
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
12. 祝福 (起立)
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン。アーメン。アーメン。
13. 後奏
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