「宣教の力、その源」
主日の祈り
私たちの主イエス・キリストの父なる神。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて、生命ある限りみ国に仕える者としてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 イザヤ 12:1a~6
「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが
∥その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
見よ、わたしを救われる神。
∥わたしは信頼して、恐れない。
主こそわたしの力、わたしの歌。
∥わたしの救いとなってくださった。」
あなたがたは喜びをもって、
∥救いの泉から水をむ。
「主に感謝し、そのみ名を呼べ。
∥諸国の民にみ業を示し、気高いみ業を告げ知らせよ。
主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。
∥全世界にみ業を示せ。
シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。
∥イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方。」
本日の聖書日課
第1日課:創世記11章1‐9節(旧)13頁
11:1世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。3彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。5主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。7我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」8主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。9こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
第2日課:使徒言行録2章1‐21節(新)214頁
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
福音書:ヨハネによる福音書16章4b‐11節(新)161頁
16:4b「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。9罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日は、キリスト教における三大祝祭日の一つである聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えています。他の二つの祝祭日に比べるとどこか地味なイメージが付きまとう気がいたしますが、実は私たち教会にとって、そして宣教においてとても大事な日です。なぜならば、この聖霊降臨の出来事をもって使徒や弟子たちは、世界宣教へと歩み出し、キリストの福音を全世界に宣べ伝えたからです。この出来事が無ければ、今日(こんにち)私たちは、キリストの福音を聴くことがなかったことでしょう。
そのような重要な出来事が起こったこの聖霊降臨の出来事を私たちは心に留めながら、本日与えられているキリストの福音を通して、今一度この出来事の真理と福音についてご一緒に神の御心に聴いてまいりたいと思います。
さて、イエスは聖霊を与える約束をされた時、その聖霊についての働きを「弁護者」と語られます。「弁護」という言葉を辞書で調べてみますと「その人の利益になるように主張して助けること。」(大辞泉)と書いてありました。この意味からイエスの語られている事がらを考えてみますと、私たちに与えられている聖霊は、「その人の利益になるよう」に言をもって臨まれる方だということです。
では「その人」とは誰でしょうか。それは神ご自身のみ言葉を取り次ぎ、その福音が益となるように働かれるということです。決して、私たち自身の利益があるようにではないのです。最も重要なことは、神の福音が、御心がすべての事がらにおいて益となることなのです。私が満たされること、元気づけられることが第一義ではなく、それは神の福音が私たちを生かすからこそ感得するものだということを覚えていかなければならないのです。
イエスは、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られます。「明らかにする」という言葉ですが、原語の聖書の言葉を訳しますと暴く、露わにする、有罪とするという意味があります。つまり、私たちの世においては、罪、義、裁きの事がらについて誤りがあり、神の御心に沿えていない現実があるということです。
罪とはイエスを信じないことだと語られます。世は、イエスを罪人の一人としました。そして、彼にこそ罪があり、自分たちこそが義しい存在であり、罪について断罪する者であると思い違いをしています。しかしながら、キリスト教信仰は、このイエスを信じることです。世の考えからするならば、罪人イエスを信じることは、即ちお前も命を失することである、そんな者を信じて何と愚かな事かと世は思うのです。
義については「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」だと語られます。世は見えるものに重きを置きます。見えないものを確かなものとすることはなかなかできません。イエスは「去っていく」と語られました。事実、昇天の出来事においてイエスは見えなくなりました。世はお前たちと共に居る者はもう居ないと考えます。しかしながら、見えなくとも聖霊によって神は共に居ます。イエスが居なくなったことは、私たちのためとなり、神の益が私たちと共に在ることを益々覚えさせるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである。」とイエスが語ったみ言葉が真理であることを顕しています。
裁きについては、「この世の支配者が断罪されること」と語られています。「この世の支配者」とありますが、これは支配者だけでなく定規とも訳すことができます。世は、支配者の考え、思惑に逆らうこと無く、それに従わざるを得ないと考えます。また、私たち自身の内にある様々な定規をもって様々なことを判断し、裁きます。しかしながら、むしろそれらこそが神の裁きのうちにある、罪だとイエスは語るのです。
いずれにしてもこれらのことは、世とイエスの語られる事柄には隔たりがあることを覚えさせられます。この事がらから聖霊を賜るということを考えてみるならば、それは私たちはこの聖霊によって、世とは全く違う所に立つということです。それは言うなれば世から出ていかなければならなくなるということです。世の外に立つことが聖霊降臨の出来事において起こっている真実なのです。
それは私たちにとっては末恐ろしいことです。世に居ながら世から離れていくことは、孤独を覚えることでしょう。自分の力なさ、弱さを受け入れなければならないこともあるでしょう。時には痛みや、病すらもそのままに受け入れなければならないこともあるかもしれません。世は、これらのことを徹底的に退けようとしますし、私たちもできることならばそれらのことは経験したくない、受け取りたくないと考えます。また、その中に置かれているならば、どうにかしてこういった事がらから解放されたいと願います。
その私に神は聖霊を送られたのです。痛みの中に、病の内に、力の弱さの内に神の聖霊は来られたのです。この世のものが満たしたのではなく、聖霊、すなわち神がそれを満たし、癒し、励まし、慰めてくださったという真実を伝えられているのです。この世のもので満たされることではなく、むしろそれらが何も無い私だからこそ神の満たしがあるのです。
世に生きる私たちですが、キリスト者はそこには居ません。世から出ていく者です。罪、義、裁きについて聖霊を通して語る者とされています。時には、世の理、もしかしたら教会自体の理に対して、それらと全く反する事がらを語らねばならないことがあるかもしれません。人間の理ではなく、神の福音を告げ知らせるからです。しかし、語るのです。神の福音こそが「あなたがたのため」となるために私たちは聖霊の御力をいただいているのです。
世の理が、誰かを苦しめ、悲しませ、痛ませているのであれば、私たちは神の御心、神の益とすることが何かを語るのです。困難を伴うことでしょう。ペトロをはじめ多くの弟子たちは、その困難の道を歩み福音を世に告げ知らせました。多くの使徒たちは殉教をしました。命を奪われました。世はそれで勝利したと考えたに違いありません。しかし、事実は、そうではありませんでした。益々福音は前身して、今を生きる私たちに伝えられています。
私は今、第7次方策委員という役を仰せつかっています。来年から始まるルーテル教会全体の宣教方策について話し合う委員会です。その中で世の理、教会の理とされていることを今一度見直す機会を与えられています。そして、今日の福音に出会い、改めて私たちはそうした事がらから出ていかなければならないことを思わされます。
どうぞ皆さんもお一人おひとりが持っている世の事がら、定規、道理にではなく、むしろそれらから出ていく決断をしていただきたいと思います。それは言い換えるならば神の福音に真に生きる、キリストを信じて生きるということです。しかしそれは同時に聖霊の導きと、満たしがあるという真理に生きるということなのです。世から出て、世に福音を語る者として聖霊と共に歩んでまいりましょう。また教会の上に世の益ではなく、世が蔑んだ十字架を信じ、見えざる神を信じ、神の支配があるように共に祈りつつ歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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