7月21日礼拝説教
- ltnishinomiya
- 2019年7月25日
- 読了時間: 10分
主日の祈り
主なる神様。私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩むすべての人に、よき隣人として仕えさせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩篇 25:1~9
主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望みます。
∥わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
どうか、わたしが恥を受けることのないように、
∥敵が誇ることのないようにしてください。
あなたに望みをおく者はだれも、決して恥を受けることはありません。
∥いたずらに欺く者が恥を受けるのです。
主よ、あなたの道をわたしに示し、
∥あなたに従う道を教えてください。
あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。
∥あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
主よ、思い起こしてください。
∥あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
わたしの若いときの罪と背きを思い起こさず、
∥慈しみ深く、み恵みのために、主よ、わたしをみ心に留めてください。主は恵み深く正しく、
∥罪人に道を示してくださいます。
主は正しい裁きで貧しい人を導き、
∥その道をへりくだる人に教えてくださいます。
本日の聖書日課
第1日課:申命記30章1節‐14節(旧)328頁
30:1わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、2あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、3あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。4たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。5あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。6あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。7あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。8あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。9あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。10あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
11わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。12それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。13海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。14御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
第2日課:コロサイの信徒への手紙1章1‐14節(新)368頁
挨拶
1:1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、2コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
神への感謝
3わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。4あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。5それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。6あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。7あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、8また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。
御子キリストによる創造と和解
9こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、10すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
福音書:ルカによる福音書10章25‐37節(新)126頁
善いサマリア人
10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日与えられている御ことばは、大変有名なイエスの譬え話の一つである「善いサマリア人」から聴いています。きっとここに居る皆さんも何度もこの譬え話を聞いたことがありますし、お一人おひとりそれぞれにこの譬えから神の御心はこういうことなのではないかという思いを持っておられることでしょう。しかしながら、御ことばは生きて働いていますから、今はそういった先入観や、既視感を捨てて純粋に今、私たちにこの御ことばが何を語り掛けてきているのかご一緒に聴いていきたいと思います。
さて、在る律法学者との対話の中でこの福音は展開されていきます。その中で律法学者は、「自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスに尋ねます。ここに人間の本性が現れています。というのは、この律法学者の心の内にある思いにある「正当化」という言葉ですが、この言葉は「義とする」という意味です。ですから、正当化と訳されていますから、何か一般化してしまっているような印象がいたしますが、これはもっと人間と神との関係の根源的な問題があるのです。
この箇所を私なりに訳しなおすと「しかし、自分自身を義としようと欲して」となります。律法学者の考えを支配していたのは、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」とイエスに問うているように、何かをして獲得するモノとして永遠の命、救いをとらえているのです。だから、律法学者は、「自分自身を義としよう」と考えるのです。永遠の命、救い、義といった神の事がらは、自分がどうあるかによって決定されていく。そういうスタンスで彼は生きていたのです。
これは私たちにも言えることです。皆さんは「私はクリスチャンだから救われている。」と考えることはありませんか。もちろん、それはある意味で正しいことです。しかしながら、「クリスチャンである私」が救いの手段、救いを獲得している根拠になっていないでしょうか。私たちはよっぽど注意深くないと、自分がクリスチャンであるかどうかで神の救いに相応しい存在であるかどうかと考えてしまうのです。
私たち人間が何と高慢な存在かということを映し出しています。「義としようと欲する」あまりに、神をないがしろにしている。神中心ではなく、自分中心に、自分が発信源となって神の救いを考えてしまう罪深さが福音を通して露わにされています。
救いの出来事は、神の出来事です。当たり前のことです。しかし、この当たり前を当たり前とできないのが私たちなのです。自分中心となってしまう。自分が誰かの隣人になることに躍起になってしまう。このことはいいことのように聞こえます。誰かの隣人として生きることの何が悪いのかと思うことでしょうが、この思いの背後にある心が、「自分自身を義と欲する」ことであるならば、本当に隣人の痛みや苦しみを担うことなど到底不可能です。
しかし神は、たとえそれが自分の敵対者であろうとも、自分が誰であるか、自分が欲しているモノが何であっても、それを打ち捨てて、隣人の痛み、苦しみ、悩み、悲しみの内に近づく、来られるのです。「デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」とあるように自分自身の財産を惜しみなく支払うのです。傷ついた者が欲したもう事をすべて担う、支払う、責任を負っていくのです。これこそが真の隣人として生きるということです。
この出来事の根底には、「憐れみ」があります。神の憐れみ、神の愛が働く時、私たちは真に隣人と共に生きることができるのです。この憐れみが、私たちの内に働かなければ、私たちは真の隣人を見出せない。隣人と共に歩めないのです。すなわち、この事がらから導き出されることは、私たちが隣人と共に生きるということは、そこには神の憐みの内に生きる二人以上の人が存在しているということです。自分も、隣人も神の憐れみの内に生きている。
私が憐れみを抱いたから、隣人を見出したのではなく、神の憐れみ、神の愛、慈しみが働くからこそ私たちは隣人と共に生きることができる。そこには自分中心な思いはありません。神が中心です。
私と隣人の間に生きて働く神の御手がある。神の御姿が示されているのです。そうして、私たちは「隣人となっていく」のです。隣人を見出すのではなく、「隣人となっていく」。神の憐れみは、そういう逆転を生むのです。
律法学者は、隣人を見出していくこと、そこでも自分が探し出し、手を差し伸べていくこと、愛していくことを念頭に語っています。自分が中心に物事が進んでいる。隣人愛の掟が解釈されている。それは間違いなのです。私たちは隣人を見出すことはできない。私たちは、神の憐みが働くところにおいて、隣人となっていく。そうして初めて私たちは隣人の隣人となることができるのです。
発露は、神です。神にすべてが在る。それにもかかわらず私たちは、自分に重きを置いてしまう。自分を中心にして、その周りに居る人を隣人だと、自分で見出したかのように振舞ってしまう。愚かな存在です。まず私自身が隣人とされなければ、誰かの隣人として生きることは適いません。ですから、私たちの祈りは「私を憐れんでください。私を隣人としてください。」です。「それでは隣人とはだれですか。」が見当違いな問いであることに気が付かされます。
つい私たちは、神の存在を忘れます。自分中心な信仰、奉仕、愛、憐れみに生きようとしてしまいます。そうではないこと、そうなれないことをイエスの御ことばを通して教えられています。今日、この事を与えられて、今一度、自分はどうであったか省み、「私を憐れんでください。私を隣人としてください。」という祈りをもって歩み、真の隣人として歩んでいくことができるように神に願い求めてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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