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ltnishinomiya

7月25日(聖霊降臨後第9主日)の説教

主のみ名を讃美いたします。


暑い夏がやってきました。

1月からの運動も辛い季節となってきました。少し動くだけで汗が滝のように流れてきます。しかしながら、しっかりと汗をかくと気持ちがいいものですね。

脱水症状や熱中症には気を付けながら健康的な生活を続けていくことは大切ですね。

夙川遊歩道も朝夕の若干涼しい時間帯は、多くの方が運動に勤しんでいます。

先週は淡路島にヒマワリを見に行ってきました。たくさんのヒマワリ越しに大阪湾と明石海峡を望む景色は圧巻でした。

夏を楽しんでいきたいですね。

先週から式文を通常式文に戻しています。コロナウイルスの状況によってはまた短縮式文に戻すかもしれませんが、コロナウイルスの感染防止対策を講じながら続けてまいりましょう。

来会の際には、手指の消毒、マスク着用、検温などにご協力をお願いいたします。

来会のご不安を覚える方はどうぞご無理なさらずにYouTube配信などをご覧になって、それぞれのところで御ことばの恵みに与かってまいりましょう。


ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。ご了承ください。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。


在主


牧師


「小さなものが大きな業を成す」


主日の祈り

恵みの神様。あなたは私たちの心に、御ことばを慕い、真理に飢え渇く思いを起こしてくださいます。御子こそ 天よりのまことのパンであることを悟り、このパンを世の全ての人びとと分かち合うことができますように。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

聖書日課

讃美唱 詩編145編10節‐18節 (旧)985頁

145:10主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ

11あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。

12その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。

13あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。

14主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。

15ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。

16すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。


17主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。

18主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし


第一日課 列王記下 4章42節‐44節 (旧)583頁 

4:42一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、43召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」44召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。


第二日課 エフェソの信徒への手紙 3章14節‐21節 (新)355頁

キリストの愛を知る

3:14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福 音 書 ヨハネによる福音書 6章1節‐21節 (新)174頁

五千人に食べ物を与える

6:1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


湖の上を歩く

16夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。



【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日の福音はキリストの物語の中でも大変有名なお話の一つです。男性だけで5000人という大変多くの人々に奇跡の業が示された出来事です。

もし自分がこの場面に見えていたら、このキリストの奇跡に対して大きな驚きを持って臨んでいたに違いないと思います。そして、同時に自分の浅はかさにも気がつかされるのではないでしょうか。


というのは、キリストとフィリポのやりとりに目を向けてみますと、私たちはフィリポの言い分に似た返答をするに違いないからです。しかし、これはそもそもキリストがフィリポを試すために問いかけたのです。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」という問いがそれです。「買えばよい」と問われているのですから、買うためにどうしたら良いか答えるのが普通です。フィリポは極めて理知的にキリストの問いかけに答えたのです。


男性だけで5000人という途方もない人数の群衆を前にして「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と換算しています。少し食べるだけ、即ち少しだけ小腹を満たす程度だとしても二百デナリオンかかると言うのです。当時の価値で1デナリオンは1日の賃金です。現代の価値で単純に日当一万円だとして二百万円かかることになります。とても大きな金額です。目の前の群衆の腹を少し満たすだけでも二百万円かかるならば、お腹いっぱいにするためにはもっとかかるということです。一年の半分以上の日当をもってしても人々は満足しないのです。


そして、アンデレが五匹の魚と二つのパンを持っている少年が居ることをわざわざ申し出ますが、それだけでは「何の役にも立たないでしょう」と言います。こんな少ない物で大勢の人々を満足させることなどできないという決めつけがその言葉の裏に表されているようなアンデレの言葉です。わざわざそんなことをキリストに上申する意図は理解しかねますが、先のフィリポとアンデレの思いを察するに、要は自分たちには大勢の群衆を養うこともできないし、その助け手も少年の持っていたものでは何の役にも立たないという事実をキリストに伝えたのです


しかし、これがキリストの試しである限り、それを理知的、理性的に答えることは意味がないことは確かです。これは極めて信仰的な問いかけです。それを彼らの目と心は神の御心に目を留めるのではなく、極めて人間的、この世的な判断をくだし、目の前にいる大勢の人々を見捨てたことになるのです。


それは、お腹を空かしているであろう大勢の人々はもちろんの事こと、少年すらも君の持っているものは役に立たないと見下し、見捨てたのです。つまり、フィリポとアンデレの所業において明らかにされたことは、二重に弱くされている人々、小さき者を見捨てて、自分で何とかしろ、お前の持っているものは役に立たないと断定したのです。


この二人の弟子たちの行なったこと、言葉に愛があるでしょうか。先週の日課で聴いた通りキリストは、ご自身の後を追って縋る人々に向けて深い憐れみを向けられました。その心の内には、人間に対する愛があります。そして、その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」は、はかり知ることはできません。パウロの言葉を借りるならば「人の知識をはるかに超えるこの愛」なのです。


なぜならばこの愛は、ご自身の命を十字架に献げるほどの愛です。自分の命が尽きることよりも、隣人が生きるためであるならば惜しまずその命を差し出すほどの愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と語られている通りです。この愛を発露にしてキリストは常に語りかけ、御業を行なっておられるのです。


弟子たちの姿に私たち自身の姿を見ます。私たちもつい打算的、理知的になって様々な事柄を判断してしまいます。それが普段の生活の事であれ、仕事のことであれ、時として教会の宣教の事柄であれ、何にしも神の御心よりも目の前の現実に対しての計算結果、考えの結果を優先します。神様が導いて下さると言いながらも頭の中でそろばんを弾いています。また、少ないものを見つめては、それがこの事柄において何の役に立つのだろうかと考えて、それを無価値とし、見捨ててしまう冷たい心の持ち主でしかないことに気がつかされるのです。


今、自助、公助、共助などという言葉が横行して、結局のところは、自分で何とかしろという自己責任の冷たい空気が蔓延しています。それは教会においてもそうです。厳しいことを申し上げますが、他の教会がどうかなど考えている教会はあまりありません。自分たちの教会の維持だけで精一杯だ、自分たちのものを守るので精一杯だ、地域のために働くことなどできない、弱くされている人が居るけどもどうしようもできないいという思いが充満しています。極めて自己保存的で冷たい状態になって久しいのが教会の現実でしょう。


しかしながら、キリストの愛は、即ち神の愛はそうではありません。キリストは人間として生まれ、人間として生きられましたが、徹底的に人間の思いや、人間が作り出した理を重んじるのではなく、むしろそれらを退け、神の御心を信じ従い続けました。人間で唯一生まれてから死ぬまで神の御心に完全に従われたのです。なぜそのようなことが適うのか。それは神のはかり知れない愛をご存じだからです。


だからこそ、大勢の人々を前にし、自分たちがこの世的にみるならば養う力も財力も無いと思っても悲嘆しません。また、この世的な理に信仰の問題を落とし込んで、目の前におられる大勢の人々を見捨てたりいたしません。また、小さなもの、弱いものしか持ち得ていないものが居たとしても、その人を無価値として、退けたり、見捨てたりもしないのです。


そして、キリストは、大勢の人々を生かすために、一人の少年が持っていたものを手に取り、感謝し、祈りを捧げて、配りはじめました。この事柄を通して私たちは聖餐の恵みを思い起こします。そこに居た5000人は、少年が持っていたパン5つを食べて満腹になりました。少年が持っていたものと同じだけのものを食したのです。すなわち、このことが示すことは、キリストの十字架の死と復活の恵み、キリストによってもたらされた恵みも等しく私たちの命を生かし、満たしているということです。


聖餐の恵みは、キリストの十字架の死と復活の恵みをパンとぶどう酒をしるしとして受け取る出来事です。そして、キリストの十字架と復活は、神の愛のしるしです。神が等しく私たちを愛しているというたった一つの真理によって私たちは喜び、希望、平安、平和を与えられています。そして、それは12の籠にパン屑がいっぱいになったように、神の愛はあまりに多く、溢れ出るほどに私たちに注がれているということを示すのです。


私たちは、つい打算的、理知的になり様々なことを対処しようとします。そして、時として目の前にある人々を見捨てて、置いて行ってしまいます。また、小さなもの、弱いものを何の役に立たない、価値のないものと見捨ててしまいます。しかしながら、それは神の御心ではないのです。神の愛がすべての人に注がれているという信仰に生きるならば、たとえそれが自分たちにはどうしようもないと思えても、また自分たちの持っているものがこれっぽっちしかないと思っても、神に感謝の祈りを捧げ、それを信じて神の御心に従って用いるとき、豊かに用いられるのです。


神の愛は、そのような豊かさと私たちには思いもしない驚きをもって、隣人を生かすのです。そういう意味で、私たちもまた小さな教会です。何か力があるとは思えない時もあります。また、さまざまに課題があり、それを前にして打算的、理知的になります。しかしそのような苦境、困難さの中に在る時こそ、自分の持っているものを豊かに生かしてくださる神が居られることを信じて歩んでいきたいと思うのです。


独りの方によってすべての人が等しく満たされたように、神は私たちを豊かに用いてすべての人が満足するどころか溢れるほどに豊かになる御業を必ず示してくださるという信仰と望みをもっていきたいと思うのです。いつも神の愛が豊かに働く選択は何か、自分の思いではなく、常に神の御心に聴きながら、たとえそれがこの世的に困難な事柄であろうと、怯み、恐れることなく信じて従っていきたいと思うのです。

私たちの教会においても兵庫地区3教会共同体制という初めて経験する出来事にまみえています。その中で誰も見捨てることなく、また持っているものを打算的にとらえて無価値とするのではなく、持っているものを豊かに用いて、すべての人が満たされる道が示されていることを信じて歩んでまいりたいと思います。


今日の福音によって示された出来事が、キリストの十字架と復活の恵みが等しく私たちに与えられていて、満足させていただいていることを覚えると同時に、私たちが困難さに直面した時の大きな道しるべが示されています。さまざまに私たちの教会も課題を抱えていますが、今日の出来事を通して示されている御心を信じ、人間の思いではなく、神の愛、神への信仰を土台としながら歩み、隣人をまことに生かし、満たす教会として歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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