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ltnishinomiya

7月4日(聖霊降臨後第6主日)の式文と説教

主のみ名を讃美いたします。


雨の日が続きます。梅雨らしいといえばそうですが、最近は毎年雨による大きな災害が起こっています。

昨日も熱海で土石流が発生し、多くの家屋が押し流され、亡くなられた方がおられます。今も懸命の救助作業が続けられています。

環境問題が取り沙汰されてから久しいですが、本当に私たち人間の生き方を変革していかなければならないと感じます。

先日、知人の牧師のフェイスブックの投稿で知ったのですが、現在は一年間で約4万種の生物が絶滅しているそうです。50年前は1000種、100年前は1種のペースだったそうですから、その速さは異常と言ってもよいでしょう。

そして、このことによって生物多様性が失われ、コロナ禍を過ごしています。生物の多様性はさまざまに効能がありました。その一つが「希釈効果」というそうです。ウイルスにしても、生物が多種多様あれば、人間に届く可能性が小さくなって、動物由来のウイルス感染症のリスクが低下するそうです。

短絡的に考えると人間など居ない方がいいと思います。しかし、聖書には私たち人間を含む創造の御業について神は良しとされたとあります。

そして人間には神が創造されものを正しく管理するように召しを与えられました。ですから、人間が居なくなればいいというのではなく、私たちが神の御心に聴きながら、どうしたら神の創造された世界が善いものに溢れるか、方向へ向かうか一所懸命もがき、考え、行動していかないといけないと思うのです。

それが真の共生であり、誰もが麗しく、命を豊かに生きることができる最も近い道のりだと思うのです。


本日もユーチューブから礼拝の模様を配信いたします。 10時20分からライブ配信をいたします。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 それぞれ置かれた所で神様の御ことばの恵みに与かってまいりましょう。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間が守られますようにお祈りしています。 在主


牧師


聖霊降臨後第6主日


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

 全員)神様。あなたは私たちを洗礼に招き、御国の到来を宣べ伝える者とされました。いつ どこででも、あなたの愛と平安を忠実に証しできるよう、使徒たちにお与えになった勇気を私たちにもお授けください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 エゼキエル書2章1節‐5節 (旧)1297頁

2:1彼はわたしに言われた。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」2彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。3主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4恥知らずで、強情なひとびとのもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。


第二日課 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章2節‐10節 (新)339頁

12:2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話をきいたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


福音書 マルコによる福音書6章1節‐13節 (新)71頁

ナザレで受け入れられない

6:1イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。


十二人を派遣する

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。7そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。 6. 讃美歌



7. 説教

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


「恥知らずで、強情なひとびとのもとに、わたしはあなたを遣わす。」と神は語られています。この個所を私なりに訳しなおしてみますと「厚顔で、頑固な心の子のもとへわたしはあなたを遣わす」となります。私たちが髪を顧みない時に起こる私たちの現実は、神の知恵、御力がすべてに勝っているにもかかわらず、人間の知恵、力の方が勝っていると神の御前に図々しく立っています。そして、神の御心、御ことばを受け入れない頑固な心の状態なのです。


神は、預言者エゼキエルを召し出すとき、その遣わす先に居て、神の御ことばを取り次ぎ語りかける人々がそのような者たちであると語るのです。それは明らかに試練と苦難に道です。その途上、民に語り掛ける言葉が受け入れられないばかりか、妻も亡くす悲嘆を味わいます。そして、遂にはイスラエルの滅亡とバビロン捕囚を味わっていくのです。


翻って私たちの宣教の歩みは決して楽なものではないということは実感としてもあることです。日本福音ルーテル教会という小さなキリスト教の一派の歴史を振り返ってみても、はじめ佐賀から始められた日本宣教は中々上手くいかなかったためにその後久留米、博多、熊本へと拡大し、そこで宣教を軌道に乗せて全国へと拡がっていきました。そうして約130年前のイースター礼拝から始まった小さな群れが、今日まで続いているのです。その間に戦争があり、高度成長があり、教会自給へ舵を切り、バブル崩壊があり、そして、現在は人間の宗教離れや忌避感、牧師の不足などその時代、時代で楽な時はひと時も無かったと思うのです。


ノスタルジックになっているわけではありません。しかしながら、聖書にもあるように私たち人間が神の御ことばを取り次ぐ宣教の歩みとは、決して順風満帆に行くということがない。その時代、時代において現代にも通じるような苦難があり、嘆きがあり、時に痛みをも負い、果ては殉教までしてしまうということがあるのです。


今日の福音に目を向けてみましても、キリストの歩みにおいても、キリストが受け入れられないということがあったことを描いています。しかも、郷里での出来事です。安息日の礼拝の時にキリストが神の真理について語られても、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」とこの世的なレッテルに縛られて、目の前におられる方が救い主であるなどとは露ほどにも思っていないのです。


それは、私たちの人間の間においても言えます。どんなに素晴らしいことを語ったとしてもあの人がそんなことを言うとは、信じられない。そういう思いが心を支配して、その人がどんなに良いことを語ったとしても素直に受け入れることができないと思ってしまうものです。私自身についてで申し訳ありませんが、私の中高時代や大学時代を知っている親しい仲間がもし今日の説教を聞いたとしても、キリストの周囲にいたような人々の反応が返ってくることだろうと容易に想像できます。


その人の人となり、社会的な地位、権威、またその人自身の能力がバイアスとなって、その人の言葉を受け入れることができないということは誰しもが経験することです。そういう意味で教会という群れは、常にそのようなこの世的なフィルターに晒されています。この世的な事柄に引っ張られて、その人の働きや、言葉を受け入れることができないということは起こっているのです。


それほどに私たちの心は、始めにエゼキエル書のことばを引用したように、厚顔で、頑固な心なのです。神の御ことばが豊かに語りかけられているのに、それを受け入れる心を持ちえない者でしかない。また、神の御ことばよりも素晴らしい言葉、知恵にあふれた言葉があると思い込んでしまう厚顔さを露わにする者なのです。神の福音を受け入れることができないのは、私たち自身に原因があるのです。


そういう人間の頑なさの故にエゼキエルの時代、イスラエルの人々は、神の御ことばを聞き入れず、悔い改めることなく、虚しく滅びへと陥りました。神は私たち人間が滅びることを御心としたでしょうか。そうではありません。神が私たちに御ことばを語り掛けるその理由は、私たちが生きる者となるようにという私たちへの深い愛と憐れみ、慈しみがあるからです。そのために神は人を召し出して、宣べ伝える者とするのです。


神の御ことばを宣べ伝えることの目的は、今日の弟子たちの派遣に「悔い改めさせるために宣教した。」とあるように人間が悔い改め、厚顔と頑なな心を捨てて、神の御ことばのみにより頼むようになるために宣教するのです。それは、キリストの宣教のはじめ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)とある通り、首尾一貫して、神が福音を語り掛けるのは、悔い改めへと導くためであるということなのです。


この罪深い私たちが真に救われるために、永遠の命を得るために、恵みと喜びとに溢れるように、キリストは私たちにずっと語り掛けている。神は、人を召し出し、宣教者を私たちのもとに遣わして下さっているのです。そのようにしてキリストの福音は全世界に拡がっていきました。その道中はたくさんの苦難があったことは言うまでもありません。郷里で受け入れられないこともあります。愛する者を天に送ることもあります。命の危機に陥ることもある。棘を負うこともある。宣教とは苦難を伴います。


しかし、確固たることは、神が、キリストが私たちを召し出しているということです。「8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」と遣わした弟子たちに旅において色々と命じられています。非常に心もとない。もっと必要な物があるように思わされます。誰でも旅に行くときは、準備として服や下着がどれくらい必要で、化粧品、衛生用品、お金がどれくらい必要か算段します。しかし、この弟子の派遣においては、とても足りるとは思えない備えです。


そういう思いを抱いてしまいますが、「二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」とあるように、まず私たちが召し出され、遣わされていくとき、神の御力を授けられている。人々の罪や悪に打ち勝つ力を授けられているのです。自分は無知であるし、この世的な力を持っていない、若い、年を取っている、何の影響力があるのだろうかと思わされることがあります。


しかし、それは人間の厚顔、頑固な心によるならばそのような思いに囚われるでしょう。しかし、私たちを豊かに用いるために神の御力が与えられ、それを顕す者とされているのです。だから私たちは苦難や悲しみがあろうとも強いのです。キリストから与えられる信仰によって、この恵みに生かされながら遣わされている。だから雄々しく進んで行きたいと思うのです。希望をもって、遣わされたところで神の福音を証ししていきたいと思うのです。


キリストによって強くされています。キリストの力が私たちの内で力強く働いています。キリストが共にあります。新しい一週間が始まります。また私たちはこの教会の場、礼拝の場から神の力、祝福を受けて遣わされていきます。とても難しい時代です。コロナ禍にあって、人々の宗教離れなど数え上げればキリがありません。しかし今日の福音を通して示されたように、どのような時にあっても神の御力が豊かに宣教の歩みの上に働いていることを覚えてまいりましょう。この力によって私たちの歩みの一歩一歩がこれからも刻まれていくことを信じ、神に委ね、神の御ことばに聴き従いながら歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。 そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦し みを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死 人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右 に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。2 聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、 からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9.聖餐式


10. 献金


11.教会の祈り


12.主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

    み名があがめられますように。

    み国が来ますように。

    み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

    私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

    私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください。

    私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

    (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

    (アーメン)


13.祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。 父と子と聖霊のみ名によって。

 会衆) アーメン。アーメン。アーメン。


14.後奏

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