主日礼拝は5日10時30分から行います。
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礼拝式文 聖霊降臨後第5主日
2020年7月5日(日)
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。
会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編145編8節‐14節
145:8主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
9主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
10主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ
11あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。
12その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。
13あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。
14主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)神様。偉大なあなたをほめたたえます。あなたを信じ、あなたに依り頼み、あなたを知り、仕えようとする私たちの願いを聞き入れてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 ゼカリヤ書 9章9節‐12節 (旧)1489頁
9:9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。
11またあなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/わたしはあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。
12希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。
第二日課 ローマの信徒への手紙 7章15節‐25節a (新)283頁
7:15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25aわたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
福 音 書 マタイによる福音書 11章16節‐19節&25節‐30節 (新)20頁
11:16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
わたしのもとに来なさい
25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
7. 説教 「安らぎと喜びは主の御許に」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
「知恵の正しさは、その働きによる」とキリストは語られています。また、パウロは「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めをきわめ尽くし、神の道を理解し尽くせせよう。」(ローマ11:33)とあるように、私たちには神の計り知れない知恵については知り尽くすことができません。
しかし、神の知恵の正しさについては、その働きによって知ることができます。当時、キリストと対立している者たちは、いわゆる知識階級の人々が大多数でした。聖書に精通し、その行いにおいても品行方正で正しい者と思われていた人々です。また、神殿の大切な祭儀を司るという重要な役目を担っていた人々、さらには彼らの議員でもあったわけです。
ですから、多くの人々は、そういった人々の語る言葉は絶対に正しい言葉であり、彼らの行うこともまた絶対に正しいことだと思われていたのです。そして、当事者であるイエスと対立していた人々も、自分自身が神の御前において正しい人間であり、神の御許で永遠の憩いのうちに入る資格があるというプライドがありました。
しかしよく考えてみますと、神の救いとは果たしてそのような資格を得ると与えられるものなのかという疑念が湧いてきます。神の願いは「世を救うため」(ヨハネ12:47)に御子イエスを私たちのただ中に送られました。「世」という言葉は、ギリシャ語では「コスモス」という言葉です。これは世界という意味もありますが、第一義は「秩序 order」です。
つまり、私たちの生きる世は、本来の姿を失っている状態なのです。何を失っているのかというならば、神の秩序、あるべき姿を失ってしまっている状態にあるということです。その秩序の回復のためにキリストは世に来られたと聖書は語るのです。
では、その秩序の崩壊は何によってかというならば、人によって齎されたのです。今日の福音の出来事から紐解くならば、すべての人々を救う神の御心があるにも関わらず、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とキリストが語られているように、疲れた者、重荷を負う者が憩う場や時が与えられていないのです。
神の秩序が保たれていれば、『「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」』(創世記1:29,30)と神が創造の御業を完成された日に語られているように、すべての被造物は、神の養い、神の与えるもので満ち足りていたのです。
しかし、現実として私たちは満ち足りることも、安心することもできないでいます。その日の食料に困っている人々がたくさん居られることも知っています。また、様々な要因によって心が騒ぎ、不安に苛まされ苦しんでいる人々が居ることも知っています。そして、現代は、新型コロナウイルスによる不安、それに加えて九州や四国で大雨による悲惨な状況が起こって暗闇が世を覆っています。
決して憩う場も時も与えられていないような状況に置かれているのです。それは、イエスの時代もそうでした。知識階級に属する人々は、自分が神の救いに与ると思い込み、安心していたことでしょう。しかし一方で市井の人々の多くは自分が神の救いに与っているかという悩みはいつまでも尽きませんでした。と、同時にその人々は更に病人や、職業によって人々を分け隔て、分断の線を引き、弱くされている人々が益々不安と悲しみの中に置かれていきました。これも現代の私たちの姿と何ら変わりありません。
2000年に渡って私たち人間の姿は、ちっとも変っていません。この線引きは、現代の世にも存在しています。ですから、イエスの語る御ことばは、遠い昔に語られた言葉ではなく、この今を生きる私たちに迫ってくるのです。私たち一人ひとりが抱える大きな不安、小さな不安、悲しみ、そして、分断など私たちには憩う場も時も本来無い状態であるということに気が付かされます。
その私たちに対してキリストは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語り掛けるのです。真の憩いは、神の御許にあることです。それはどういうことかというならば、自分がどうであれ、キリストの御ことばを信じ、委ねるということです。
その在り方についてキリストは続けて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と語られます。軛とは、二頭の牛や馬を繋げる道具です。すなわち、それは神との繋がり、関係の中に生きているということです。私たちは、神との関係を罪によって断ち切ってしまいました。そして、人と人との関係性においても様々な場面で絶たれている状態です。その中で孤独の中に置かれている人々、罪の縄目に囚われている人々、大きな不安の中にある人々と共に神ご自身が繋がってくださるのです。
それを繋げる要素は、神の柔和と謙遜です。「柔和」という言葉に着目しますと、原典のギリシャ語ではマタイで3回、第一ペトロで1回しか使われていない言葉です。つまり、マタイにとって神の柔和さとは神の救いにおいて重要な言葉なのです。
神は罪人に対して裁きを下し、滅ぼすと考えられていました。それ故に、神の律法を守り、神の御前において義しくあることが正義でした。それを守れない者は、不義であり、神の救いに与る事など到底できないと考えられていた人々にとって、キリストの言葉は驚くべき言葉だったに違いありません。
このキリストの御ことばは、神が私たちを救いたいという御心を抱いていること、柔和に私たち罪人の一人ひとりを抱き寄せ、神の優しい眼差し、この罪人を愛しんでいることをお示しになられたのです。ですから、当時の知識階級の人々にとっては理解できない御ことばでありましたが、罪の不安に苛まされていた人々、それによって分断され周縁に追いやられていた人々にとっては光だったのです。
そして、その御心を十字架の死と復活によって示されました。まさに人知でははかり知ることのできないお働きによって、神の柔和と謙遜を示し、救いを成し遂げられたのです。ですから、私たちは、この神の柔和と謙遜にすべてを委ね、私たちもまたキリストの十字架の死と復活の出来事の軛を負い、罪を赦された罪人である喜びと恵みに与っていることを信じてまいりたいのです。
改めて神の柔和と謙遜のしるしである十字架こそが、私たちを救い出し、孤独、不安、悲しみ、疲れ、重荷を降ろす憩いの所であることを覚えてまいりましょう。十字架は決して人の目には、憩う所とは思えません。しかし、そこに私の存在を置くことこそが、真の憩う所であり、そこで私たちは神に繋がれて導き入れられていることを教えられています。
翻って、神がそのように人々にして下さったように、私たちもまたこの平安の中に生かされながら、この平安を求めている人々と繋がっていきたいと思うのです。分断ではなく一致を求め働き、神の柔和と謙遜のしるしである十字架を信じる信仰に生きる幸いをすべての人々に宣べ伝えてまいりましょう。真の癒しは神の御許、キリストの十字架にあることを世に証ししてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 献金
10. 教会の祈り
11. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
12. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)
アーメン アーメン アーメン
13. 讃美歌 238番 (1節)
14. 後奏
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