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8月1日(聖霊降臨後第10主日)の説教

  • ltnishinomiya
  • 2021年8月24日
  • 読了時間: 10分

「キリストを信じることは神の業」



主日の祈り

神様。あなたは永遠の善であり、計り知れない愛です。私たちはあなたから賜る日毎の糧で満ち足りています。この世界と私たちがどのような試練のときも、あなたのいのちで満たしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


聖書日課

讃美唱 詩編78編 23節‐29節 (旧)914頁

78:23それでもなお、神は上から雲に命じ/天の扉を開き

24彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり

25人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

26神は東風を天から送り/御力をもって南風を起こし

27彼らの上に肉を塵のように降らせ/翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ

28彼らの陣営の中に/宿る所の周りに落としてくださった。

29彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。


第一日課 出エジプト記 16章2節‐4節 (旧)119頁 

16:2荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。3イスラエルの人々は彼らに言った。

「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

4主はモーセに言われた。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。


第二日課 エフェソの信徒への手紙 4章1節‐16節 (新)355頁

キリストの体は一つ

4:1そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、2一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、3平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、6すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

7しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。8そこで、/

「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」

と言われています。

9「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。10この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。14こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、15むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。


福音書 ヨハネによる福音書 6章24節‐35節 (新)175頁

6:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。


【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とキリストは語られます。私たちは、神の子として善いことをしたいと願い求めています。ルーテル教会においても様々な働きがあります。関西地区でいえば、幼保の働きがあり、るうてるホーム、喜望の家といった福祉の働きがあります。キリストが小さくされた人々のために働かれた姿に倣って始められた大切な働き、神の業の一端です。そして、何よりも教会の働き、宣教はまさにキリストが福音を宣べ伝えたという神の業の最も基本の働きです。


そのような神の業をこの世に顕していくうえで根本であり。最も大切な事としてキリストは「神がお遣わしになった者を信じること」であるとお示しくださったのです。しかしながら、私たちは自分の力や知恵によって神を信じることはできません。私たちは神の御心を信じて歩むことができないからです。それは、今日の第一日課でモーセに不平不満を漏らす民たちの姿に映し出されています。


エジプトでの奴隷状態から導き出してくださった神の業を顧みることなく、むしろ自分たちが奴隷状態の方が満たされていたと言うのです。それは肉的な満たしです。お腹いっぱいという満たしです。人間は、そういうこの世的な満たしをすぐに求めてしまいます。財産、権威、地位、人脈など挙げればきりがありません。教会においてもそれは例外ではありません。時として教会でさえもこの世的な充足を求めてしまうときがあります。そして、それらを求めてあくせくし、時には隣人を蹴落としたり、陥れてでもそれらを手に入れようとします。


そのような所業によって何が起こるかというならば、自分は満たされても、隣人は窮乏に陥り、弱められるという現実です。誰かが富むことによって、誰かが貧しくなり、誰かが満腹になることによって、誰かが空腹になるという現実が私たちの間には常に生じています。この飽くなき渇望によって人々はいつの世も傷つき、疲れ果て、弱められ、遂には死に至るのです。


ですから、私たちは、私たち自身では誰もが満たされ、喜び、希望に溢れ、平安の内に生きることなどはできないのです。自分たちの力や知恵に頼るならば、自分たちが満たされていないという思いに囚われ、イスラエルの民と同様に不平不満を漏らす者となることでしょう。このようにして、私たちの間には、欲があり、その欲が全体を膨らませていくのです。


主は、イスラエルの民を導き出した救いの出来事を記念するために、酵母を入れないパンを食べてはならないという掟を与え、除酵祭として未来永劫守るようにと命じられました。これはただ単にエジプトから脱出するのに時間がなくて酵母を入れなかったということではありません。この掟を通して、あらゆる人間的な思い、欲望ではなく、純粋に神の救いだけを覚えるようにという御心がそこにあるのです。


そして、今日のマナの出来事に示されているように、神から与えられるものによってすべてが満足し、命を得ることを示されました。そして、キリストの時になって、それはしるしとしてではなく、キリストご自身を信じる信仰によって生きるのだと語るのです。すなわち、神への信仰によって生きること、これが私たちに求められているのです。正しいことを行うことや、何かしるしを示されて信仰が得られるのではなくて、信仰が与えられることによってのみ神の御心をまことに悟り、神の正しさの中に生き、善いことができるのです。


そしてこの信仰は、神の満たしと、神の御力によって導かれ、飢えることも、不足も、不満もない命を生きる者とされていることを悟り、神の与える賜物によって一つとなり生きることを悟らせます。誰もが、神によって導かれ、キリストの十字架により救われ、キリストの復活によって永遠の命を与えられている。そういう喜びの一致をもたらし、私たちの間には真の平和、真の満たし、真の平安が訪れるのです。


信仰は、まったくの神の業です。それはキリストが語られている通りですし、パウロが「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られた」と語っている通りです。私たちはそのままでは不信仰に陥るばかりです。不満を漏らす者です。欲望の絶えない者です。

そのような自分を見つめながら神の御前に謙り、悔い改め、神がキリストを遣わし、私たちを救い出すために十字架に架かり、死んで、三日目に復活し、天に昇られた方を信じる。すなわち、キリストの福音を信じる信仰。その時、私は満たされ、私たちの共同体は全てが満たされていることに気が付かされることでしょう。


私たちの宣教の歩みにおいても悩みがあり、不足があるように思える事柄が沢山あります。しかし、キリストへの純粋な信仰に生きるならば、私たちは今でも十分に神の恵みと満たし、平安、満腹の内に生かされていることに気が付かされるのです。なぜならば、この世的な不足はあれども、キリストが今共に私たちと生きてくださっている。そうであるならば、私は平安、平和であるという確信に至らせるからです。


この先どのような苦難や困難があろうとも、イスラエルの民が荒れ野で40年間主の守りと満たしの内に歩んできたように、私たちの歩みもまたキリストの十字架の死と復活という救いの出来事を土台として確かな救いの業の内に生かされている確信の内に生きることが適うのです。「信仰」とは、それほどまでに私たちを強め、希望に溢れさせます。


この信仰が与えられていることを私たちは心から神に感謝しながら、歩んでいきたいと思うのです。そして、この信仰こそが真の一致をもたらし、誰も飢えることなく、渇くこともなく、弱められ、虐げられることなく、死ぬこともなく、永遠に喜びと希望の内に生きるいという驚くべき御業を私たちにもたらす力であることを覚えたいと思います。キリストからの信仰、そしてキリストへの信仰によって私たちは固く結びあわされています。そして、キリストを信じることにより神の業を豊かに世に顕すことができるのです。


まずもって自分がキリストを信じる信仰など持ちえないこと、この世的な欲にすぐに囚われてしまう弱いものであることを神の御前に悔い改めていきたいと思います。そして、自分たちの欲するものを神の御ことばに混ぜることのないように注意深くありながら、真に神の御心が何か神から与えられる信仰によって御ことばに耳を傾け、深く悟らせていただき、神の栄光を世に顕す働きを神と共に担っていく、そのようなキリストの共同体として歩んでいくことができるように、これからもキリストからの信仰を願い求め、キリストからの愛を顕す者としてくださいという祈りを共に合わせながらすべての人が神によって満たされている平安の内に歩んでいくことができるように御ことばの恵みを宣べ伝えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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