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8月11日の礼拝説教

  • ltnishinomiya
  • 2019年8月30日
  • 読了時間: 10分

「豊かさとは何か」

主日の祈り

すべてのものを裁かれる全能の神様。私たちの持っているものはすべて、あなたが委ねてくださったものです。私たちにみ霊を注いで知恵を与え、委ねられた賜物を呪いの道具ではなく、あなたの祝福の器として用いる者にしてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇 49:2~13

  諸国の民よ、これを聞け。この世に住む者は皆、耳を傾けよ。

    ∥人の子らはすべて、豊かな人も貧しい人も。

  わたしの口は知恵を語り、わたしの心は英知を思う。

    ∥わたしは格言に耳を傾け、竪琴を奏でて謎を解く。

  災いのふりかかる日、わたしを追う者の悪意に囲まれるとき、

    ∥どうして恐れることがあろうか、宝を頼みとし、富の力を誇る者を。

  神に対して、人は兄弟をも贖いえない。

    ∥神に身代金を払うことはできない。

  魂を贖う値は高く、

    ∥とこしえに、払い終えることはできない。

  人は永遠に生きようか。

    ∥墓穴を見ずにすむであろうか。

  人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と共に滅び、

    ∥宝を他人に遺さねばならないということ。

  自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。

    ∥人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。


本日の聖書日課

第1日課:コヘレトの言葉2章18‐26節(旧)1036頁

2:18太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。19その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。

20太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。21知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。22まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。23一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

24人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。

25自分で食べて、自分で味わえ。

26神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。


第2日課:コロサイの信徒への手紙3章5‐17節(新)371頁

3:5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


福音書:ルカによる福音書12章13‐21節(新)131頁

「愚かな金持ち」のたとえ

12:13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 今の私たちの世を見回してみますと獲得することに人々が躍起になっている印象を受けます。そんなことをこの説教を準備しながら考えていた時に、内田樹氏のある本を読んでいてこのような一文に出会いました。

「あなたが何ものであるかは、あなたがどのような商品を購入したのかによって決せられる。」そのような消費哲学に基づいて、現代人んおアイデンティティは構築されています。どういう家に住んで、どういう服を着て、どういう車に乗って、どういう家具に囲まれて、どういうワインを飲んで、どういうレストランで食事をして、どういうリゾートでバカンスを過ごすか。そういう消費行動によって、「あなたが何者であるか」は決定される。だから、商品購入ができない人間は「何もの」でもありえないのだ。長い期間をかけて現代人はそう教え込まれてきました。(潮出版社,内田樹,2014年,街場の共同体論:95)


 この文章の背景には、私たちの世がいかにして、いかなるものを獲得していくかということが至上命題になっている社会が在るという真実を表しているように思います。戦後日本は焼け野原が各地に広がっていました。東京も、名古屋も、大阪も、広島も、長崎も、沖縄も当時の主要都市、戦略的に有効な地域は大規模な空襲によって丸裸だったわけです。そこへ来て、敗戦を迎え、さぁ今から立ち直らなければならないという空気が社会に充満していました。


 その結果が、行動経済成長でしょう。高速道路、新幹線、科学技術、産業などは革新的な進歩を遂げて、人々の生活も地方から上京し、集団就職をし、家庭を築き、団地生活から戸建て生活へ、家電三種の神器を持つことへの憧れなど、挙げればキリがないほどの成長への欲求を満たしていきました。それは同時に大量生産、大量消費の世の中を作りあげていき、そのベルトに乗ること、しがみついていくことを求められる世の中になっていったのです。

その結果が現代の私たちを取り巻く状況です。成長至上主義、物質主義がもたらしたものはまさに「空」「空しさ」だったのです。それらのものは、一時の平安と、安心を保障はしました。しかしながら、後に残ったものは何もありませんでした。むしろ私たちはそのことによって人と人との繋がりを失いました。核家族化、子どもの貧困という言葉が叫ばれて久しいですが、何も改善に向かっていません。むしろ状況は悪くなっているのではないかと思わされるほどです。


 主イエスは、そのような私たちに「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と警告してくださっています。「貪欲」とは、もっともっとという欲求です。

人はそのことを満たす為に軽々と他者の領域を害し、侵略していきます。その末路が戦争であることを私たちは知っています。しかしながら、私たちはそいう大局観で物事を判断できません。今、目の前のものを欲しがるあまり、その先にある滅びには目を留められないのです。人間とは真に愚かであるということをコヘレトの言葉は「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」と記しています。


 欲求を満たすために日々労苦します。痛みを負って、悩みを抱え、欲に支配されている限りあれもこれも欲しいという思いに囚われ、心が休まることはありません。すなわち、そのような心である限り平安はいつまでたっても訪れないということです。そのような人間の弱さ、愚かさを主イエスはご存じだからこそ人々に「どんな貪欲に注意を払い、用心しなさい」とわざわざ教えてくださっているのです。「貪欲」は、何も生みだしません。現に私たちの世がそれをまさに表してます。それは先ほど触れた通りです。


 強者と弱者のコントラストは濃くなるばかりで、弱者とされている人々、持たざる人々は淘汰されるばかりです。ただただ不安の中に押し込まれ、益々弱くされていく、強者とされている人々、持っている人々もまた貪欲が心を支配しているのですから、あれが足りない、これが足りないと心に平安はありません。物事や言っていることが簡単に翻る社会です。人々は、どこに平安が在るのか、安心して生きていられるのか分からなくなっています。


 このイエスの警告を聴きながら思い起こしたのは、5000人の給仕の場面でした。あの時、弟子たちが主イエスに差し出したのは5000人以上の人々に対してたった二匹の魚と五つのパンでした。しかしながら、それをイエスが天に向かって祈り、パンを裂いて弟子たちに渡し、配り歩くと5000人の人々が満腹になり、パンは12の籠にいっぱいになったという出来事です。

「祈りと賛美をささげ」「パンを裂く」ことによって、僅かな五つのパンと二匹の魚は豊かになりました。常識的に考えるならばあり得ないことです。しかしながら、僅かなものであっても、それが神から与えられた賜物であると信じ、感謝していくとき、それは豊かにされ、しかも有り余るほどの恵みをもたらすのです。小さなものでも互いに共有すること、自分の持っているものを裂くことによって、全ての人々が満足するのです。


 それは私たちの視点を変えさせます。人の目が貪欲に取りつかれている限り、自分に与えられているものに目を向けさせません。そして、自分はいつまでたっても貧しいと思いこませ、他者の領域を蹂躙し、貶め、傷つけます。しかし、今、自分に与えられているものが、人の目、世の判断からするならば僅かでも神からの賜物であることを知っている者は、それが本当は豊かであることを知っています。

 そして、それを分け与えても、裂いても豊かに有り余るほどあるということを知っています。他者のものを欲しがる必要もない、むしろ豊かなのだから共有していくことの喜び、その豊かさによって他者が平安になっていくことを喜びとする者へと変えられるのです。

 イエスは、十字架の上で死にました。自分の持っているものをすべて差し出しました。そして、全ての人が赦され、神の憐れみと愛の内に生き続ける永遠の命を共有することとなりました。たった一人の命を裂いたことによって、すべての人が生きたのです。まさに僅かなものが豊かであることを主イエスの十字架による贖いの死が示しています。


 ですから本当の豊かさとは、自分がすでに神によって豊かであることを知ることです。たった一度、たった一人の十字架の死が私たちを豊かにしているように、今与えられているものに目を向け、感謝し、祈り、讃美し、分け与え、共にすること。それこそが私たちの真の豊かさであることを覚えながら歩んでまいりましょう。そして、この福音をまさに私たちはまだ福音を知らない他者と分け合いながら、共に神によって豊かにされている喜びを分かち合ってまいりましょう。なぜならば福音は私の信仰、平和、平安を満たすためではないからです。すべての人に宣べ伝えなさいというイエスのご命令、言い換えるならばすべての人と分かち合いなさい。それが真の宣教、伝道の在り方だからです。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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