また、健康にご不安のある方、できますればご高齢の方の出席は重症化のリスクなどもございますのでくれぐれもご無理をなさらないようにお願いいたします。
ライブ配信も引き続き行ってい参ります。
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どうぞ、感染対策をとりくれぐれもお気をつけてお過ごしください。神様によって健康が守られますようにお祈りしています。
礼拝式文 聖霊降臨後第11主日
2020年8月16日(日)
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 賛美唱 詩編67編
67:2神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように
3あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。
4神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
5諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。
6神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。
7大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が/わたしたちを祝福してくださいますように。
8神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべてのものが神を畏れ敬いますように。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)すべての民の神様。あなたは御手を伸ばして、あなたを呼び求める者すべてをはぐくんでくださいます。御名が全地に知れ渡るように、私(わたし)たちが御子の弟子として、思いやりとまごころをもって、この世を愛することを教えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 イザヤ書 55章1節、6節‐8節 (旧)1152頁
55:1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
6主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。
8わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
第二日課 ローマの信徒への手紙 11章1節‐2節a、29節‐32節 (新)289頁
11:1では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。2a神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。
29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
福音書 マタイによる福音書 15章21節‐28節 (新)28頁
15:21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
7. 讃美歌 280番
8. 説教 「パン屑さえいただければ」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
パウロは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められました」と語っています。ローマの信徒への手紙は、まだ見ぬローマの信徒たちへ宛てた手紙でした。当時のキリスト教において指導者的な立場であり、宣教者の代表格であったパウロから手紙が来たことをきっとローマの人々は大きな喜びを持ってその封を開いたことだろうと思います。
今、神を信じることによってもたらされている社会的な立場の苦境、苛烈さの中にある自分たちにパウロがどのような言葉を届けてくれたのだろうかという人々にパウロは「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められました」とまず語るのです。
その言葉に続いて神の憐みについて述べ伝えていますが、まずキリスト教信仰を持って生きることの苦しみにある人々に対して、人間すべてが「不従順」すなわち罪人であるという現実を突きつけるのです。それは、私たち人間は本来的に神の救いに与ることができない存在でしかないという真実を浮き彫りにします。
この苦悩がキリスト教信仰において重要なのです。「私たちは救われている」という平安を願って止まない私たちです。また、神によって救われているという真実を信じている私たちです。しかし、その救いへと神が私たちを導く時、先ず神が私たちに示すのは、私たちは神に対して「不従順」である、罪人であるという真実です。
そのような中で私たちは今日の福音に目を向けていくとカナンの女の信仰のうちに信仰者としてのあり方を見出します。結論から申し上げるならば、神の救いという出来事は、極めてパーソナルな出来事であると同時に全人的なものであるということに気がつかされるのです。
と言うのは、神の救いはすべての不従順であった罪人であるすべての人に与えられた出来事であり、その一人が私という存在を引き上げ、平安と喜び、神の恵みのうちに生かされていることを示します。
カナンの女がイエスに対して願った言葉にその真理が顕されています。彼女は娘が悪霊に酷く苦められていると言っています。しかしながら、彼女は娘に憐みを向けて、娘が苦められている状況から救い出してほしいと願うのではなく、「わたしを憐んでください」と願ったのです。
普通であれば娘が苦しめられているのですから、娘自身に対する救いを求める方がいいのではと思わされます。なぜこのカナンの女は「わたしを憐んでください」と願ったのでしょうか。それはこの女性が神の救いがすべての人に及んでいるのだから、私に対して憐れみが向けられているのであれば、娘にもこの私に向けられた神の憐みがあるという信仰に立っていたのです。
確かに自分はカナンの出身であり、ユダヤ人たちからするならば異邦人です。ユダヤ人たちは、神による救いは神から選ばれた自分たちに与えられる固有のものであると考えていました。恐らくこの女性もそのことを知っていたことでしょう。
そういう意味でイエスの「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉も尤もだと考えていたことでしょう。しかしながら、彼女はこのイエスの言葉を排他主義的な言葉としてではなく、それでもあなたの憐みが向けられれば、異邦人であろうと神の救いは信じる者にもたらされるという神への深い信頼があるのです。
この神に委ねさえすれば、たとえパン屑一つの小さなお恵みでも、大きな平安と、慰めと癒しとが叶えられると信じているのです。彼女は自分が子犬であると言いましたが、犬はユダヤ人たちからするならば律法で汚れた動物として忌避されていました。(レビ11:27)
それほどまでに自分は罪深く、汚れた存在であると神の御前に頭を垂れ、謙遜に、また悔い改めをもって臨んでいる姿が示されています。その罪人中の罪人であったとしてもあなたの憐みの僅か、パン屑一つさえいただければ十分であり、大きな喜びと恵みであると信じている姿、また彼女の神への信仰の深さがこの言葉に込められているのです。
イザヤ書には「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」と預言されています。イザヤの時代、イスラエルの人々はことごとく神の御心から離れ、不従順と罪に陥っていました。その中でイザヤは神から赦しへの道筋を示し、大切なことは「主に立ち帰る」こと、すなわち悔い改めを迫り、その恵みは憐みであり、豊かな赦しだと神御自身がお示しくださっています。
翻って、私たちに対してこのカナンの女性の出来事から教えられることは、やはり悔い改めが信仰において大切なことであるということです。ルターの95カ条の提題においてもまずルターが提起したことは「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ4.17〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」という提題でした。
私たちは罪を犯し続けます。私たちは日々カナンの女性のように罪深い存在なのです。そのことを深く自覚しながら、自分には自分自身を弁解し、義しさをアピールしたり、キリスト者であるという一種の選民意識に支配されるのではなく、日々誠実に自分自身の罪に向き合い、神に悔い改め、神の救い、憐みを乞い求めながら生きたいと思うのです。
この悔い改めを神は聞き届けてくださり、「憐み」と「豊かな赦し」を恵みとして私たち一人ひとりに賜ってくださいます。この憐み深い、赦しの神の御手が罪深い私を罪と死から引き上げ、永遠のいのちに生かし続けてくださっている喜びを与えてくださるのです。
カナンの女性は、自分自身に向けられた憐みによって娘の悩みが癒されました。私に向けられている神の救いの御手は、すなわちすべての罪人に向けられていることを証しています。神の救いが私のパーソナルな出来事でありながらも、実は全人的な救いの出来事であり、私たちの計り知れない神の御力、憐み、赦しが示されていることをも示しています。
私たちは、この神の大いなる御業、御手の内に生かされています。そして、大きな喜びを得ています。これがすべての人に向けられていることを知らされています。しかしながら、今もこの喜びを知らずに苦しみや悩みの中にある方々を覚えます。どうぞお一人おひとりが今日与えらえたこの福音を隣人と分かち合い、一人でも多くの方が平安と喜びに導かれるように遣わされた場で、神の宣教者としての召しを誠実に果たしつつ新しい一週間を過ごしてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
9. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
10. 献金
11. 教会の祈り
12. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
13. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン、アーメン、アーメン。
14. 後奏
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