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礼拝式文 聖霊降臨後第9・平和主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。
会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
4. 詩編 145編8節‐9節、14節‐21節
145:8主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。
9主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。
14主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。
15ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
16すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。
17主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。
18主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
19主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。
20主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
21わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)A栄光(えいこう)の神様(かみさま)。あなたは惜(お)しむことなく、世界(せかい)に良(よ)いものを注(そそ)ぎ、お創(つく)りになられたものを満(み)たしてくださいます。私(わたし)たちが、体(からだ)と魂(たましい)を共(とも)に満(み)たす食(た)べ物(もの)への渇(かわ)きに目覚(めざ)め、飢(う)えた世界(せかい)をこの食(た)べ物(もの)で満(み)たしてください。救(すく)い主(ぬし)、主(しゅ)イエス・キリストによって祈(いの)ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 イザヤ書 55章1節‐5節 (旧)1152頁
55:1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。
5今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。
第二日課 ローマの信徒への手紙 9章1節‐5節 (新)286頁
イスラエルの選び
9:1わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、2わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。3わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。4彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。5先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
福音書 マタイによる福音書 14章13節‐21節 (新)28頁
五千人に食べ物を与える
14:13イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
7. 説教 「神から与えられる糧」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日の福音のはじめには「イエスはこれを聞くと」と記されています。何を聞いたのかと言いますと、今日の福音の直前洗礼者ヨハネがヘロデとヘロディア、その娘の企みによって殺されたという事件のことを指しています。そのことを聞いたイエスは、人里離れた所に退かれたのです。
しかしながら、そのことを聞いた人々が大勢イエスのもとへと押し寄せました。イエスは、そのような群衆の姿を見て「深く憐れみ」とあります。この時のキリストの目の前に映る人々はどのような姿だったのでしょうか。キリストが私たちに深い憐みを向けられた別の箇所の御ことばを見てみますと、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)姿を見て深い憐みを向けておられます。
洗礼者ヨハネがヘロデによって殺された出来事と合わせて考えてみますと、まさにこの時の群衆の姿もまた「飼い主のいない羊」に映ったのではないかと考えられはしないでしょうか。なぜならば、人々は洗礼者ヨハネにも期待をしていました。今まで自分たちが知っているような宗教指導者のようではなく、あの大預言者と云われるエリヤのように映っていたからです。
エリヤはイスラエルの人々にとってメシアが現れる前に再び地上に遣わされる預言者と信じられていました。そのような期待をされていた預言者が、時の権力者に殺されてしまったのですから、ローマとヘロデの弾圧、二重課税に悩まされ、自国であった土地を外国人たちに政治的にも、内面的にも、また外面的にも侮辱されていたイスラエルの人々にとって大きな衝撃でした。
ましてやヨハネの登場によってもうすぐこの抑圧と、侮辱から救い出されると期待していた思いが打ち砕かれたのですから、それは尚更です。さらにキリストが癒されていたのは、病人だったと記されていますが、当時の社会において病人とは、すなわち罪人でした。キリストのもとに来るほどの病でしたから、風邪とかそういう病ではなくて、重い皮膚病、中風、血に関する病気、心の病などだったろうと想像に難くありません。
そういった病を抱える人々は、当時の通念からするならば、神の御前に罪深い者だからそういう痛みを負わされているのだ、罰を負わされているのだ、神の裁きが下ったと考えられていました。そして、その病の者に触れること、関わることで、それが伝染し、触れた者も同じ罪に陥ると考えられていました。それゆえに病人、汚れた者、罪深い者に関わらないようにするためにそのような人々を社会や世間の外に置き、無視し続けたのです。
つまり、キリストの目の前に居る多くの人々は、誰一人として強い者、宗教的な観念から見て義しい者と言われているような人々ではなく、むしろ弱くされた者、希望を失い、失意の中にある人々であり、罪人であり、何か新しい希望となる様なものを望んでいた人々だったのです。
そのような人々に空腹が襲っていました。夕方になっていたからです。闇がもう直ぐやってくる時間です。心のうちに不安があると夜が来るのが怖いと思ったことを皆さんも経験したことがあるかと思います。そういう人々を前にして弟子たちは、人々を解散させ、それぞれに食事を買いに行くだろうとキリストに進言します。
そこまでは、私たちの監督することでもないし、自分たちにはそんな力も無いと言っているように聞こえます。しかし、想像してみてください。もしこの群衆の中に食べ物を買えずに空腹のままに眠りを迎える者がいるかもしれない。キリストに出会ったのに、空腹のまま帰されて腹を立てる者があったかもしれない。果ては、空腹のまま路上で死んでしまう人があるかもしれない。
神はそのようなことに人が陥ることをよしとするでしょうか。そうではないはずです。神の御心は、私たちすべての人が神の救いを得て、平安と喜びに満ち溢れるようになることです。私たちはつい現実を見ます。五つのパンと二匹の魚では、こんなにも大勢の人たちを満腹にはできない。私たちの分はあるから、あなたたちも自分で自分の分を調達すればいいと。
そこで私たちの生きる今の世を見つめてみますとまさにこの弟子達のような自己責任、自己保存が蔓延る社会にあるように思います。愛や優しさが欠けているようなことがたくさん散見されます。例えばこどもの相対的貧困が7人に1人だと言われ、そのご家庭の半数が一人親世帯だということです。子どもたちには何の落ち度もないのに、親が離婚するのが悪い、正規社員になれば良いじゃないかという声が上がります。
しかしながら、ニッチもサッチもいかない状況に置かれている親がそんな余裕があると想像できないでしょうか。正規社員になりたいと思いながら、中々それができない状況に置かれているとは想像できないでしょうか。もしかしたら、親自身が病などによって中々仕事に就くことができないかもしれないと想像しないでしょうか。
そういう想像力を働かせて、他者が置かれている状況に思いを向ける時、自己責任だとは言えなくなります。自己保存をする事の愚かさに気がつかされる事でしょう。どうしたらそのような状況からより良く生きることができるようになるか、そういうことを考えだし、行動するようになるのではないでしょうか。
ましてやイエスは、すべての人に救いと平和と安心を得させるために来られました。だからこそ、群衆を帰らせるのではなく、そこに留めたのです。そして、五つのパンと二匹の魚を手に取られ「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しに」なりました。弟子たちが配ると男性だけで五千人が満足したとありますから、もっと多くの人々が満足したことでしょう。
福音はパンを裂かれたことに注目していますが、この出来事は主の聖餐の恵みを想起させます。キリスト者はパンをキリストの体として信じて受け取っています。このことから今日の福音を聞いていくと、つまりこのパンが裂かれることは、キリストが十字架で死なれた、体を死によって裂かれた出来事を指し示します。
キリストの十字架の死によって、すべての人々に救いがもたらされました。そして、十字架の死の贖いの出来事は、その時代に生きている人々だけでなく、先の者も、後の者も全てを包含する救いの出来事です。十二の籠にいっぱいなったとありますが、それは数ではなくて、そのキリストの恵みが私たちの想像を超えるほどの多い恵みであることを表しています。
このパンを裂きの出来事に際して、盲目で、他者を省みようとしなかった弟子たちが用いられました。弱く、乏しく、罪深い弟子たちを神は用いられ、神の恵みを人々に分かち与える働きをお与えくださっています。それは、この時の弟子に限らず、すべてのキリスト者に与えられている働きです。キリストから私たちは恵みを与えられ、平安と恵み、喜びをいただいています。
真に感謝すべきことであると思います。しかしながら、私たちはこの受けた恵みを、他者と分かち合うようにキリストから促されています。キリストがあなたの全てをご存じであり、あなたの不足を満ちたらせ、そればかりか溢れるほどの恵みをお与えくださっていること。あなたの思いをご存じであり、すべての恐れと不安から自由にしてくださっていること。この宝を教会は世に伝える働きを与えられています。
恵みを独占するのではなくキリストが「ただで受けたのだから、ただで与えない。」(マタイ10:8)と命じられているように、喜んで他者と分かち合うのです。神から与えられる溢れるほどの恵みに生かされているのですから、決してなくなることも尽きることもありません。
礼拝が終わったら黙し、今日も安心したと自己満足、自己保存するのではなく、神に生かされている喜びを私たち自身も喜んで語り、キリストが模範となられたように、家族に、友に、同僚に、後輩に、出会う人々、すべての人に神の溢れる恵みが注がれていて、あなたを生かすために生きて働いてくださる方が共に居られることを宣べ伝え、多くの人に真の希望を伝える群れとして歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
8. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
9. 献金
10. 教会の祈り
11. 平和の祈り
全員)主よ、私たちを平和の使者として送り出し、
憎しみのあるところに愛を、/争いのあるところに赦しを
分裂のあるところに一致を/疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を/闇のあるところに光を
哀しみのあるところに喜びを伝える者にしてください。
私は、慰められることよりは慰めることを
理解されることよりは理解することを
愛されることよりは愛することを求めます。
それは赦すが故に赦され、死するが故に永遠のいのちに生きるからです。
12. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
13. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン
14. 讃美歌 420番 (1、5節) ※次ページ掲載
15. 後奏
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