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  • ltnishinomiya

8月22日(聖霊降臨後第13主日)の説教

今週から礼拝の模様もこちらのページに掲載します。

どうぞそれぞれのところで思いと祈りを合わせてまいりましょう。


「言葉は霊であり、命」



主日の祈り

聖なる神様。あなたは永遠のいのちの言(ことば)で民を養われます。偽りと邪悪を退けてあなたの内に歩めるように、私たちを導き、あなたの真理にとどまることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


聖書日課

讃 美 唱 詩編34編16節‐23節 (旧)865頁

34:16主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。

17主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。

18主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。

19主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。

20主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し

21骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。

22主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。

23主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。


第一日課 ヨシュア記24章1節‐2節a,14節‐18節 (旧)376頁 

24:1ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、2aヨシュアは民全員に告げた。


14あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。15もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

16民は答えた。

「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」


第二日課 エフェソの信徒への手紙6章10節‐20節 (新)359頁

悪と戦え

6:10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。


福 音 書 ヨハネによる福音書6章56節‐69節 (新)176頁

6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

永遠の命の言葉

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」


【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


ヨハネ福音書の冒頭に記されている「ロゴス賛歌」には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と記されています。「言」それ自身が神であるというのであれば、聖書に記されている言葉は、まさに神ご自身を顕すということであり、聖書の始めから終わりまで神が臨在されているということです。

ですから、私たちは聖書は、読み物や、歴史書物、イエスという人の伝記としてではなく、まさしく神の言として受け取っているのです。これらの数えきれないほどの言によって時に力づけられ、時に戒めを受け、時に悲しみすら覚えさせられる。まことに私たちは聖書を通して神との人格的、感情的な交わりを与えられていると言って過言ではないでしょう。


そして、それらの言は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)と語られているように、キリストを通して受肉し、私たちの間に来られたのです。神の言自身が人となられ、私たちのもとで神ご自身を顕してくださったのです。


そして、神の言の恵みの最大にして、最高の顕現はキリストの十字架の死です。私たちの人知を超えた仕方で神は救いの預言の御ことばを実現されました。この十字架の御業を信じて生きることこそが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことです。キリストの十字架の死を神の救いの御業として、私たちが肉体を維持するために肉と血を食べ、飲むように、私たちの命が真に生きる上で欠かすことのできないものとしてキリストの十字架は示されているのです。


この真理をキリストはこの時お示しくださったにもかかわらず弟子たちは、前段のユダヤ人たち同様に躓きを覚えるのです。そして、キリストは弟子たちのつぶやきに対して「あなたがたはこのことにつまずくのか。」と問います。「つまずく」とありますが、その原意は「怒る」という意味です。すなわち、この時キリストに従っていた弟子たちは、キリストに怒りを覚える。それは言い換えるならば神に対して怒っている様を顕しています。


人であるにもかかわらず、神の示されている真理に気づくことができず、神に対して怒っているというのは、本当に人間は滑稽で、愚かな存在であるということを教えられます。それはすでに出エジプトの出来事の時に「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)と不平を漏らした姿が思い起こされます。


キリストご自身が真の肉であって、この方を信じて受け入れることこそが真に生き、永遠の命という大いなる恵みに与かることだということを信じられないのです。あろうことか、神であるキリストご自身の言によってつまずきを与えられ、神に対して怒ってしまう。それは、何もこの弟子たちや、出エジプトのイスラエルの民たちに限ったことではないでしょう。


私たちもまたキリストの十字架の死と復活という出来事を心から信じて歩むことができなくなってしまいます。理性によるならばどうしてそのようなことが起こるだろうかという疑いが生じます。科学が進歩して人が死んで生き返るなどということはあり得ないということが分かっています。だからこそ、私たちは死を避け、それが無いかのように振る舞い、何とか今ある自分の命を謳歌しようとしています。


一時の快楽に身を寄せてしまい、たとえそれが神の真理を示す御ことばでも、自分の意に沿わない、理解することが到底できないことがあれば、神の恵みだとしてもそれと気づかずに捨て去ってしまうのです。

ヨハネ福音書が書かれた時代、キリスト教は大迫害に遭っている真っ最中です。信仰において、また肉体や精神においても多くの苦難があり、それはあまりにも大きな代償があります。キリストを信じる信仰に生きるということは即ちこの世的にみるならば死と隣り合わせであるということです。


そのような中でヨハネは、キリストを信じる信仰に生きることの難しさを説きながらも、キリストの福音こそが私たちを生かし、神の栄光の内に歩む幸いがあると力強く証ししているのです。

今日の讃美唱においても神の御ことばを信じ、従う者の幸いについて

19主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。

20主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し

21骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。

と讃美されています。


主に従い、生きることの方が苦しいことが多いように思います。この世的にみれば損を取ることもあります。ましてや、キリストご自身のご生涯を見つめるならば、たとえ人間を救い出すためとはいえ、ご自分の命を投げ打ち、十字架に架かって死ぬという苦難の道を歩んでいます。キリスト者であることの重さ、苦しさはあるのです。それは、今も変わりありません。現代においてもキリスト者として生きることの意味が問われます。


無神論が大勢を占め、宗教離れが著しい世の中に在って、なぜ信仰の道を歩むのか。それこそ神が居るならばこのコロナウイルスの苦境から救い出してもらったらどうだという声さえ聞こえてきそうな雰囲気が蔓延しています。信じていて何の得があるのかという声もあるでしょう。しかしながら、この世での歩みを刹那的に私たちは生きているのではありません。死の先にある命を見つめる言を与えられています。


肉に従ってこの世の幸を謳歌するのではなく、永遠の命を神から賜り、神と共にいつまでも生きるという希望の内に生きる。それが信仰の歩みです。この世的には力もなく、得もしないかもしれません。しかしながら、神を信じて歩むということは、この私の苦しみ、困難さ、嘆き、悲しみを聞き届け、主の栄光、御力、恵みの内に生かしてくださることを覚えつつ、力強く歩む者とされていると確信させます。


神のなさることをすべて理解できない私たちです。時として不平や不満を漏らしてしまう弱い者です。その自分があるということを教えられました。そのような自分を悔い改め、神の御前に謙り、神の御心をすべて理解できない信仰の弱さを認めていきたいと思うのです。謙虚に神と人との前に立つものでありたいと思うのです。そのような自分を見つめながら、神からの信仰によって、神の恵みに生かされ、この恵みに感謝しつつ、神から来るもので満たされ、安心を与えられていることを覚えたいのです。


苦難があります。嘆きがあります。悲しみがあります。怒りすら覚えることもあります。今また困難な道を私たちはコロナウイルスによって歩まざるをえない状況にあります。そのような中で神の御心に従って生きていくことができるように、神に信仰を与えてください、神に従って生きることの恵みを教えてくださいと願い求めながら歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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