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8月25日の礼拝説教

  • ltnishinomiya
  • 2019年8月30日
  • 読了時間: 9分

「後の者が先になる」

主日の祈り

主よ。あなたの民が切にみ助けを求め、救いの恵みを喜ぶことができるように、その心を奮い立たせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇117:1~2

  ハレルヤ。すべての国よ、主を讃美せよ。

    ∥すべての民よ、主をほめたたえよ。

  主の慈しみとまことはとこしえに、

    ∥わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。


本日の聖書日課

第1日課:イザヤ書66章18‐23節(旧)1171頁

66:18わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。

19わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。

20彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。

21わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。

22わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。

23新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。


第2日課:ヘブライ人への手紙12章18‐29節(新)418頁

12:18あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。


福音書:ルカによる福音書13章22‐30節(新)135頁

13:22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


【説教】

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから」では遅いというように聞こえる御ことばが示されています。なぜこのように語られているのかと言うならば、イエスに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問うている者の思いを見抜いておられるからです。

 私たちの神の国のイメージは、非常に美しい光景を思い浮かべます。この世の生を終えたのちに私たちが行くところへの理想はそれぞれにお持ちのことであるかと思います。


 しかしながら、主イエスが語られている事がらは、その時には「あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけ」であると語られています。いよいよ、神の御国に入るという安心を得て、そこに辿り着いた時には遅いのだということが言われているように思います。この事から思い巡らしてみるならば、終わり良ければ総て良し、神を信じていればそれでよしではないという現実があるということをイエスは語られているのです。


 信じるだけではいけないのかと思わされます。そうすれば御国への通行手形をもらったも同然だと私たちは考えます。しかしながら、このイエスの御ことばは、そうであるが、それだけではないことが語られています。では、私たちはこのイエスの御ことばを聞いてどうすればよいのでしょうか?信じることだけではないという現実に、信仰をもってどのようにこの世の生を歩んでいけば良いのでしょうか?


 善いサマリア人の譬え話を思い出してみてください。永遠の命を願う者がイエスと問答をした場面です。その譬え話で重要なことは、私たち自身が隣人を見出して世話をすることではなくて、私たち自身が隣人となることをイエスは語り、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語られました。神の国の現実を知っている者は、イエスの御ことばを聴き、触れて、感じて行ったとき、隣人として生きるということを教えられました。


 そして、今日の福音と合わせて考えてみますと、イエスが語られていることの真意は、御国に入った時どうであったかと清算して考えるのではなく、いま置かれている場所でどう生きるかが問われているということです。

 パウロが「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」と証ししているように、私たちは、神の御国に在るという確信を得ながら、同時に神に喜ばれるように、神に仕えていく生を歩もうとパウロは勧めているのです。


 それは、強いられてするのではありません。この事がらについてヒントとなる言葉をボンヘッファーは遺しています。

 「神がわたしたちに対してあわれみ深くあった時、わたしたちはそこで同時に、わたしたちの兄弟に対するあわれみを学んだ。わたしたちが、さばきではなくてゆるしを〔神から〕受けた時、そこでわたしたちは兄弟をゆるす心の用意が整えられた。神が私たちにして下さったことを、そこでわたしたちは、わたしたちの兄弟に対してなすべき責任が与えられた。より多く受ければ受けるほど、わたしたちはますます多くを与えることができた。」(共に生きる生活/ボンヘッファー著/森野善右衛門訳/2004年/新教出版社)


 私たちは、神の赦しに生きる群であります。神の御国を受け継ぐ光栄を与えられています。そこで私たちは満足していないでしょうか。当時イエスの周囲に居たユダヤ人たちは、この思いに囚われていました。彼らはアブラハム以来、神から選ばれた特別な民であるという自負がありました。その自尊心がイスラエルという自分たちの国を亡ぼすきっかけとなったにもかかわらず、イエスの時代においても同じような思いを抱いていたのです。特に祭司、律法学者、ファリサイ派、サドカイ派など派閥が誕生し、自分たちのグループこそが神の御前に義しく、神に救われるべき存在であると考えていたのです。


 これまでの説教の中でも度々申し上げてきましたが、信仰の力は、神の恵みの確信と赦しと慰めといったあらゆる恵みを与えてくださっているということの喜びを見いだします。そこで私たちは満足してしまいがちです。これでもう安心だ、平安だと考えてしまうのです。しかしながら、信仰は極めて能動的です。信仰は、私たちを行いへと促すのです。そういう意味で、自分で満足して終わる信仰は空しいものであると言っても過言ではないでしょう。


そして、その行いは、イエスが神からの信仰に生きられた姿を見る時どのように生きればよいのか自ずと示されていきます。他者を憐れみと慰めと癒しをもって隣人を生かしたように、他者を生かす生き方、信仰に則って歩むということです。

 私たちの世においても、様々に政治的、信条的な派閥やグループが存在いたしますが、それらの集団が果たして、他者を愛し、隣人となり、生かす集団となっているかと言うならば疑問が残ります。また、私たちの教会(この場合西宮教会を含めたキリスト教会全体と言えます。)もそのことがらに注意深くあらねばならないでしょう。


 その場合に、互いに批判し合うのではなく、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:13)とあるように、自分の思いではなく、主イエスの御心を御心として、互いに忍び合い、赦し合っていかなければなりません。神の御国に入る時、そこに向かうことは赦せそうにない相手を赦さねばならないという苦悩があり、忍耐を伴うのです。私たちがキリスト者として生きるということは、神の鍛錬にあうのです。


 御国に入る日を憧れながらも、私たちは今、どう生きるかが主イエスに問われています。その時に大切なことは忍耐と赦し合いです。主イエスも私たちの心の鈍さを忍耐され、十字架の死による赦しを実現してくださいました。イエスに倣うことの難しさを覚えます。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)と使徒が証ししていることはまさにこの神の御心に聴き、従って歩むことの忍耐と、赦し合いを指しています。


 しかしながら、同時に主イエスの御姿に倣って歩むことの喜びと希望をも私たちは神の約束によって見出しています。ですから主の鍛錬を希望をもって歩んでまいりましょう。神と共に宴会の席に着く福音を信じ、今与えられている使命を一心に、一所懸命に共に励まし合いながら喜んで成してまいりましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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