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ltnishinomiya

8月29日(聖霊降臨後第14主日)の式文と説教

更新日:2021年9月5日

主のみ名を讃美いたします。


暑い日が戻ってきました。皆さん体調いかがでしょうか。

夏の終わりの暑さのぶり返しは体に堪えますね。

運動をしていても汗が滝のように溢れてきます。

先日久しぶりに整体に行きました。体が歪みすぎていたようです。

運動とセルフケアをしっかりやって健康的にしていきたいと思います。


礼拝自粛となり、やはり寂しい思いがいたします。

一日も早いコロナウイルスの終息を願うばかりですが、もうしばらくかかりそうですね。

健康に気を付けながら、神様の御守りを祈り求めてまいりましょう。

私も月曜日にやっと一回目のワクチン接種ができます。


ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。 在主


牧師


聖霊降臨後第14主日



1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

 全員)弱い私たちを強めてくださる力の神様。私たちを内外の攻撃から守り、きよめてくださり、御子のうちにとどまることができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読 

第一日課 申命記 4章1節‐2節,6節‐9節 (旧)285頁

モーセの勧告

4:1イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。


6あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。7いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。8またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

9ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい。


第二日課 ヤコブの手紙 1章17節‐27節 (新)421頁

1:17良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

神の言葉を聞いて実践する

19わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。20人の怒りは神の義を実現しないからです。21だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。23御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。24鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。


福音書 マルコによる福音書 7章1節‐8節,14節‐15節,21節‐23節 (新)74頁

昔の人の言い伝え

7:1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」


14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」


21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


6.讃美歌




7. 説教

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


 私たち一人ひとりは、それぞれに心に抱く思いや考えが存在しています。何も思わず、考えずに生きることはできません。特に最近、私たちを取り巻くこのコロナ禍という未曽有の状況、見えないウイルスとの対峙の期間が長くなり、いつまでこのような状況が続くのだろうという不安、大切な人と自由に会うことも叶わない状況に悲しみを覚えることすらあります。


 先日、私は義父を天に送りました。葬儀が東京で執り行われますから、コロナウイルスの蔓延している渦中に行くことに躊躇さえ覚えました。無事につつがなく終えることができましたが、家族の看取りや大切な家族を送り出すことすらも阻まれ、悩みや不安を覚えるこの状況は正に異常事態であると言えます。これは私個人のことではありますが、誰もが様々な出来事を通して悩み、不安を覚え、悲しんでいると思うのです。


 このようなコロナ禍という特異な状況でも私たちの間には一定の規範や慣習のようなものが生まれてきます。今ではすっかりどこに行くにしても手指の消毒、マスク着用、三密を回避するといったことなど様々なことが変容し、当たり前のようになっています。そして、これを守らない人とのトラブルも増えています。飛行機や新幹線でマスク着用を拒否した人や鼻がマスクから出ているという指摘に怒って運行が乱れたというニュースも時々見聞きします。そうして、私たちはいつの間にかそんなこともできない人はろくでもない、逮捕してしまえばいいとか、罰則化した方がいいと思い始め、もちろんその行為自体いけないことですが、裁きが起こるのです。


 それは、今日の福音においても同様です。ファリサイ派という律法を厳格に守るグループであり、律法学者とは律法の専門家です。彼らがイエスの食卓に集っている人々が汚れた手や身を清めずにいることに対して「なぜ」とイエスに問うのです。まるでそれは、コロナ禍におけるマスクをしない人、ルールを破る人に対する私たちの視線と同じです。自分たちの正当性を盾にして人を裁いている姿が映し出されています。


 そのような私たちに対してキリストは、「8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」とイザヤ書の言葉を引用しながら厳しく批判しています。ここに記される「捨てて」という言葉は「放っておく」「無視する」「追い払う」「遠くへやる」という意味があります。いずれにしても、人が自分たちのルールに固執していくとき起こる事柄とは神の掟を自分たちの心から追い払う、無視する、遠くへ追いやって、自分たちの正しさを振りかざしている暴力が露見しているのです。


 自分の思いや考えが正しいと思い込むとき、私たちは他者が自分の思いや考えにそぐわないと怒ります。不届き者だとさえ思うことがあります。しかしながら、それがエスカレートしていくとどうなるでしょうか。そこに完全なる溝、対立が生じてしまうことを私たちは様々な出来事を通して見ています。昨今のニュースを独占しているアフガニスタンの情勢についても同様です。あの出来事は、9.11のテロを機に起こったことですが、そもそもは資本主義陣営と共産主義陣営の代替戦争から生まれたことです。それを一つの衝撃的なテロによって混乱を来たし、アメリカの正義によって20年間不毛な時間が過ぎ去ったに過ぎません。しかし、その代償は余りにも大きく、人々の命を20年間、そしてこれからも脅かし続けているのです。


 これは大きな出来事ですが、こういった暴力はどこにおいても起きることです。私たちの生活の中にも起こります。親が子どもを叱るということにおいても、親のルールがあってそれにそぐわない子どもを抑圧しようとするようなものであるならば、それは今日の福音におけるファリサイ派や律法学者の思いと同様です。私たちはそうやって自分の正しさ、正義を振りかざし、他者を裁き、傷つけ、不安や悩みの底へ落とし込もうとするのです。そうして、あたかも自分の正義が勝利した、正しかったのだと主張するのです。そこに神の掟、御心は存在しません。なぜならば神の掟を追い払い、無視し、遠くに追いやっているからです。


 そのような私たちの姿を露わにされて、第一日課の申命記の御ことばに目を向けてみますと、モーセがイスラエルの民に神の御ことばを取り次ぎ勧めている言葉が記されています。そこには、「わたしが教える掟と法」「わたしが命じる言葉」「わたしが命じる」とあるように「わたしが」という主語があります。これはモーセがではありません。この「わたし」とは神ご自身です。すなわち、モーセがイスラエルの民に勧めている事柄とは神から来るもの、賜るものを自分たちの心として生きていきなさいという勧めです。


 人の思いに囚われたとき、荒れ野での40年間民たちは罪を犯し続けました。マナの出来事然り、また最も重い罪である金の仔牛を鋳造した出来事然りです。私たちは自分たちの思いを優先し、神を侮り、試し、神から離れようとするのです。私たちは本当に弱い存在です。神の御心に徹底的に従うことができなくなってしまいます。ファリサイ派にしても、律法学者たちにしても、前者は律法を完全に守ることによって、後者は律法の専門家であることによって、自分が正しい存在だという自負心、自尊心が芽生え、神をないがしろにし、裁きは神の業であるにもかかわらず、心の中で正しくない人を裁くようになっていき、他者の存在を否定し、殺してしまっているのです。


 つまり、人間が自分の正しさを振りかざすときに起こることは、平和ではなく、分裂であり、労りや癒しではなく、傷つけ、不安に陥らせるのです。そういう暴力が古の時から、現代まで私たちの世には横行しています。そのような私たちに対してキリストは「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」と語り掛けます。そして、「イエスは再び群衆を呼び寄せて」とあるように、主の招きがあります。キリストの御ことば、御心に立ち帰るようにという召しが与えられているのです。


 キリストは、私たちの罪を見つめながら、自分の正しさを振りかざして断じるのではなく、主の御心に立ち帰るようにという招きを与えてくださっています。分断ではなく、柔和さを示し、罪人を赦したもうという愛によって、私たちは神の御心を御心とする生き方へと促されているのです。

 そして、神の御心の極みは十字架です。キリストの十字架のお姿に、神の愛による罪の赦し、新しい命の在り方へと招きたもう御心が示されています。


 古い私たちを捨て去りましょう。自分の正しさとなっていることを見直し、それらが真に神の御心に沿っているのか。そして、それが神の御心から離れ去り、神の御心を無視し、追い払っているのであれば、今日示されているキリストのみ招きに耳を傾け、思いを向けて、自分自身を悔い改めていき、神の御心を御心とする生き方へと立ち帰っていきましょう。分断や争い、他者を傷つける正しさではなく、他者への愛と柔和、謙遜、受容を伴い、互いに生きる生き方へと自分を変革していきたいと思うのです。


 私自身からは悪しか産み出しません。神が与えたもう独り子キリストによって私たちは真の命を生き、互いに生かし合い、平和と平安の内に生きることができるのです。キリストが私たち一人ひとりの内に宿り、生きてくださることによりそれがかないます。すべては「キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)からです。キリストの招きがあります。キリスト共に生きることによって私たちの霊は清められ、キリストを内に宿し、キリストの愛と平和を豊かに告げ、平和を実現する者とされるのです。


 キリストの御ことばこそが霊であり、命であり、私たちをまことに生かす豊かさに溢れた賜物であることを覚えながら新しい一週間を歩んでまいりましょう。まだまだ不安の残る日々ではあります。コロナのこと、世界情勢のこと、また自分自身の生活、健康のことなども心の内に重くのしかかります。しかしながら、主の招きの声が私たちにあります。そして主の愛が私たちの内に宿ってくださっています。キリストの御ことばにより平安の内に歩んでいる幸いを覚えて宿された命とされています。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 


8. 信仰告白 (起立)


司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

 み名があがめられますように。

 み国が来ますように。

 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

 私たちの犯した罪をお赦しください。

 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

 (アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


13. 後奏








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