ライブ配信を引き続き行ってい参ります。
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どうぞ、暑さ対策、感染対策をとりくれぐれもお気をつけてお過ごしください。
礼拝式文 聖霊降臨後第13主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって
会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。
会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。
会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編26編1‐8節
26:1【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
2主よ、わたしを調べ、試(こころ)み/はらわたと心を火をもって試(ため)してください。
3あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従って歩き続けています。
4偽(いつわ)る者と共に座らず/欺(あざむ)く者の仲間に入らず
5悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません。
6主よ、わたしは手を洗って潔白(けっぱく)を示し/あなたの祭壇(さいだん)を廻(まわ)り
7感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
8主よ、あなたのいます家/あなたの栄光の宿るところをわたしは慕(した)います。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)神様。世のために苦しみの道を選ばれた御子に感謝します。御子に倣って私たちが己を低くし、従順の道を歩み、あなたの戒めに従うことができるように力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 エレミヤ書 15章15節‐21節 (旧)1206頁
15:15あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知ってください。
16あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。
17わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。
18なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。
19それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。
20この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。
21わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」
第二日課 ローマの信徒への手紙 12章9節‐21節 (新)292頁
キリスト教的生活の規範
12:9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
福音書 マタイによる福音書 16章21節‐28節 (新)32頁
イエス、死と復活を予告する
16:21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
7. 讃美歌 272番(教会讃美歌)
8. 説教 「十字架へと」 竹田 大地牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
第一日課でエレミヤは神から「彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。/21わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」という預言を与えられています。
この預言は、エレミヤの預言者としての歩みにおいて大きな力づけとなった神の御ことばでした。
何故ならば、エレミヤもまたイザヤ同様神から離れ、背信を繰り返し、腐敗するイスラエルの中で神の預言を語り伝えることに恐れ、疲労、虚しさを痛感せねばならない状況に遭ったからです。エレミヤ書の後に収められている「哀歌」は、そのような困難な中で活動した預言者エレミヤが綴ったイスラエル滅亡の哀しみと嘆きを歌った書物としても覚えられています。
いずれにしても、彼は大変な困難を覚えながら、聞く耳を持たない人々に語り続けることに疲れていたのです。そして、神御自身も「お前はわたしを捨て、背いて行ったと主は言われる。/わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。/お前を憐れむことに疲れた。」(エレ15:6)とまで言わせるほどにイスラエルは罪に塗れているのです。
今日の受難予告もまた、キリストの十字架の場面を想い起こすと、まさにエレミヤを襲った状況がキリストにも襲っていたことに気が付かされます。キリストはご自身が殺され、三日目に復活することを予告されました。しかしながら、ペトロはキリストのこの御ことばに対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諫めます。
ペトロの思いはきっとほかの弟子たちの代弁であったと思いますが、それは神の御心に聴いたうえで発した言葉でも、キリストの身を案じて発した言葉はなく、極めて人間的な自己中心の思いに囚われて溢れ出た言葉でした。なぜならば、彼らが期待しているメシア、救世主像に余りにも反するキリストの言葉だったからです。
彼らにとってのメシアとは、イスラエルを再興する偉大な王への強すぎる希求でした。神から与えられた地を再び支配し、外国人の手から取り戻してくれる者が彼らにとってのメシアだったのです。それはこの世の権威への渇望であり、神の御心よりも自分たちの屈辱の歴史を覆す者が現れることの希望だったのです。
しかしながら、彼らが祖国を奪われたのは、自分たちが神の御心に従わずに、人の思いを優先し、他者を顧みず、神の御ことばに耳を傾けなかったことに依ります。それなのに、彼らは再び同じ罪を繰り返そうとしているのです。罪を繰り返す私たちであることをこのキリストとペトロのやり取りから教えられます。
そのような私たちに対してキリストは、神に従う者として在り方を示されます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」という御ことばは、私たちにとって非常に重いものです。
なぜならば、自分を捨てること、自分の十字架、すなわち神に対して犯し続けた罪をすべて自分自身で負うことが神に真に従うことだからです。ハッキリ申しますれば、それは重すぎるのです。私たちは日々神に対して罪を繰り返し犯してしまう罪人にすぎません。負いきれないほどの罪が在り、贖っても、贖っても足りないほどの罪を負っています。私たちは罪の縄目に囚われ、永遠にその縄目からは自分で解くことができないでいます。
また、自分を捨てることも中々かないません。なぜならば自分を捨てることは恐れを伴います。その背後には、何かしらの承認欲求に飢えているからです。誰かに認められて自分という人間を確立したいという願いを捨てきれないのです。昨今ではSNSなどで何件の「いいね」を貰うかがその人の価値を決めているように思います。
そのために躍起になっている現状は狂っているとしか言いようがないと思います。また、もっと身近なことで言えば、家族に父として、母として、娘として、息子として自分を承認してもらうことも同様ですが、残念ながらそのことを得られずに悩んでいる人が多く居るのも真実です。
いずれにしても私たち人間は価値のある人間でなければならないという恐れを抱きながら生きているのですから、自分を捨てるということは、自分の存在価値や意義を失うことになりかねないという錯覚を起こさせ、そんなことは到底適わないことであり、無理だと思わされるのです。それは存在価値、意義を失うのですから、自分の命そのものを失うことと同義だからです。
しかし本当はそうではないのです。私たちの承認は既に満たされているのです。そこで「彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。/21わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」というエレミヤが託された預言の御ことばに戻るのです。
私たちに対して悪や罪はいつも襲ってきます。重荷を負おうとしない自分、自分を捨てられない自分、神に従えない自分にさせようと罪は力強く私の手を引いて誘います。しかしながら、それらの力が神に対して戦いを挑んだところで勝てないのです。
悪や罪がどんなに手を伸ばして私という存在を脅かし、偽りの命のあり方へと導き、その実が命を取ろうとしている企てであっても神が共にいて救い出してくださるのです。そして、この永遠に解くことのできない縄目から、神は解放してくださると約束してくださっているのです。そして、そのしるしとしてキリストの十字架が与えられています。
私の重荷、私が自分を捨てて神にのみ委ねられない姿をキリストが負われた十字架に見いだすとき、この私の罪をキリスト御自身、すなわち神御自身が請け負い、担い、私が架けられるはずだった十字架に架かられて死んでくださった姿を見いだすのです。そして、復活によってキリストが、それらの力に打ち克って私たちの前に現れてくださり、その縄目から私たちが神によって解かれたことをお示しくだったことを知るようになるのです。
このキリストの十字架があるから私たちは自分の十字架を負うことができるのです。なぜならば、この重荷をキリストが共に負ってくださっているからそれは軽いと知っているからです。また自分を捨てることの恐れも克服されます。なぜならば、たとえ自分を捨てたとしてもキリストが、私を憐れみ、わたしと共に生きてくださっているからです。この世の誰も彼もが私を捨てても強いことを知っているからです。
このキリストの十字架の恵みに私たち一人ひとりは与っています。だからこそ、私たちは十字架へと歩みを進めるキリストにのみ従って歩んでいく信仰を恵みとして受け取ることができているのです。世がどうであれ、その時に抱きそうになる人間的な思いに支配されるのではなく、いつも神の御心が何か熟慮し、語り、行ない、すべての人が神の承認の中で平安の内にあることを伝えていきたいと思うのです。
不特定多数の誰かの承認欲求ではなく、唯一の方によって私の命は、守られ、導かれ、豊かな喜びに満たされていることを宣べ伝えていく幸いを覚える時が与えられています。その上で私たちは今日キリストから教えられているように、世を恐れるのでなく、私の罪の多さを恐れて自分の罪を負うことを躊躇するのではなく、重々自分自身が罪人であることを自覚して、神に悔い改めていきましょう。
「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。」とあるように真にこの神のめぐみに喜んで生きるならば、多くの実りが神に帰すことを覚えていきたいと思います。そして、きっとエレミヤのように恐れも抱く、絶望も味わう、哀しみを覚える、時として厳しい神の御心に触れることがあったとしても、神があなたを承認し、あなたの命を豊かにしていることこそが本当に人を生かすこと、そのためにキリストが十字架に架かって死んでくださったことをたゆみなくこれからも宣教の道を共に歩み、神に依り頼み、従い、神を信じながら世に左右されるのではなく雄々しく神の御名と十字架を旗印として歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
9. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
10. 献金
11. 教会の祈り
12. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
13. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン アーメン アーメン。
後奏
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