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ltnishinomiya

8月4日の礼拝説教

主日の祈り

常に僕の祈りに耳を傾けられる神。私たちがみ旨に従って歩み、み霊の賜物を受けることができるように、私たちの心と思いをあなたへ向かわせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


詩編唱 詩篇 138

138:1【ダビデの詩。】

わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。

2聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。

3呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。

4地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。

5主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。

6主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。

7わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。

8主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。


本日の聖書日課

第1日課:創世記18章16節‐33節(旧)24頁

18:16その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。17主は言われた。

「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。18アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。19わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」

20主は言われた。

「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。21わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

22その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。23アブラハムは進み出て言った。

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

26主は言われた。

「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

27アブラハムは答えた。

「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」

主は言われた。

「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

29アブラハムは重ねて言った。

「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」

主は言われた。

「その四十人のためにわたしはそれをしない。」

30アブラハムは言った。

「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」

主は言われた。

「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」


第2日課:コロサイの信徒への手紙2章6‐15節(新)370頁

キリストに結ばれた生活

2:6あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。7キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。8人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。9キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、10あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。11あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、12洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。13肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、14規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。


福音書:ルカによる福音書11章1‐13節(新)127頁

11:1祈るときには

11:1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。

3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

4わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


【説教】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

祈りは、キリスト者の生活において欠かすことのできないことがらです。今日は、聖霊降臨後第8主日として守っていますが、日本福音ルーテル教会では「平和の主日」としても守っています。74年前の惨事を経験していない私でもこの時期は特別に思い起こします。そのような時に祈りがどれだけ大切かということを思わされます。その私たちに欠かすことのできない大切なことである祈りについて教えてくださっているのが、今日与えられている御ことばです。イエスは、弟子たちにこう祈りなさいと語られた後に、譬え話を通して祈りにおける私たちの姿勢、在り方について教えられています。

主イエスは、「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と弟子たちに語られました。この箇所について私なりに改めて訳しなおしてみますと、「彼の図々しさに、彼は起き上がって、彼の求めるものをいくらでも与えるようになるだろう」と語られました。神に祈る時、「厚かましく」「厚顔」「図々しく」あれと主イエスは語られています。このイエスの言葉に驚きを覚えます。

なぜならば、私たちは祈りというと、心を静めて、品行方正に神の御前にあって、言葉においても細心の注意を払いながら祈らなければならないと考えているからです。それに加えて、私たちはこうも考えがちになります。あの人よりも信仰的にも、信仰歴的にも乏しいので、あの人みたいに祈ることはできない。また、祈祷当番に相応しい人は、役員、毎週礼拝に来ている人だと考えていないでしょうか。

しかし、主イエスはむしろそういった事がらとは真逆のことを教えています。神の御前で恥知らずであること、厚顔無恥であることが示す御心とは何でしょうか。恥ずかしい人間でありなさいという主の御ことばに聴きながら、神と人という関係性に思いを向ける時、私たちはまさに神の御前に恥ずべき存在であることに気が付かされます。アブラハムは、そのような人間の本性を承知していました。だからこそ神に「塵あくたにすぎないわたしです」と告白しながらも「あえて、わが主に申し上げます。」と神にソドムへの滅びの御手を思い直すように願い求めました。

ここに神に祈ることの本質が示されています。私たちは、天地創造に示されているように塵から形づくられた者でしかありません。天地創造には「土の塵で人を形づくり」とありますが、「土の塵」です。すべての生物が踏みしめる土です。その土の塵です。最も小さなものを集めて神は私たちを形づくったのです。この真実を見つめるならば、私たち人間の高慢さ、傲慢さは計り知れません。自然をコントロールできると思い込んでいます。未知のエネルギーすらもコントロール下にあるから安心してほしいと宣います。人が人を傷つける争いを繰り返し、々行ってきたことは歴史を見れば明らかです。

同じ塵から形づくられた者であるにもかかわらず、私たちはそうした過ちを犯し続けているのです。74年前のもっと言うならば、あの戦争は15年戦争ともいわれていましたから、約90年前から始まった戦争の日々は、その極みであり、その間に様々な傷を人々に残しました。今日でも北方領土、従軍慰安婦問題、沖縄基地問題などそのしこりは解消されていません。

そのような世の姿を見つめながら、神が私たちに望んでいる姿がどのような在り方なのかを知らされています。そして、これを客観視するのではなく、お一人おひとりが自戒と自己批判をし、この神の御心に沿えていない現実を見つめ、本当に人間が立つところは、最も低い所であることを覚えたいと思うのです。祈りの姿に真に平和を造りだす人の姿を見るのです。

その模範を示してくださったのがまさに主イエスです。イザヤ書には「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)と預言されているように、主イエスの痛み、即ちイエスが負ってくださった十字架の苦しみ、痛み、死は、私たちの不和、不信仰、傲慢、高慢の罪によって齎されたものに他ならないのです。

不和、不義、不信仰、傲慢、高慢の罪を私たちはいつも抱えています。祈りを忘れます。神の御前に「恥ずべき」存在であることを忘れ、何者かであるかのように振舞ってしまいます。そういった我々の姿を神はご存知であり、その代償は私たちにとって負い難く、耐えがたいこともご存じであられるのです。だからこそ、神は主イエスを私たちの元に遣わし、神であるにも関わらず、最も低きに立ち、祈る者として生き、十字架へと歩まれ、私たちに真の平和をもたらしてくださったのです。

私たちも主イエスの姿に倣いながら、低くあることを恐れず、罪深く、高慢で、厚顔無恥な私ですという真実に貫かれ、打ち砕かれなければならないのです。そして、この罪人であるという実存を投げうって大胆に神に「神よ」「主よ」と語り掛けるのです。私たちは真に平和を造りだすことができない罪深い存在であるけれども、あなたの平和を、あなたの十字架によって世に実現してくださいという切なる祈りを、これからも絶えずご一緒に願い求めていきたいと思うのです。

この罪深く、高ぶってしまう人間の在り方を知らされて、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」という御ことばが真実であることに気が付かされます。神は、先にも言いましたように、「良い物」すなわち主イエスを与えてくださいました。その主イエスが、十字架の死と復活によって、私たちの命に真の平和、真の愛、真の祈りを与えてくださいました。数えきれないほどの恵みを私たちにいつも与えてくださっています。

私たちは、塵あくたにすぎません。世の平和のためにできることは僅かかもしれません。しかしながら、私たちには祈りがあります。そして、主イエスがあります。そして、この主イエスが平和を成し遂げてくださったことを十字架を通して知らされています。平和は、私たち自身ではなく、神が成し遂げてくださっています。私たちはその神に全幅の信頼を寄せて、ただただ祈り、願い求めていくのです。

足らざる自分、愚かな自分、弱い自分、罪深い自分であることを十字架の御前に自覚しながら、その恥をさらけ出し、図々しく、厚かましく、平和を祈り求めてまいりましょう。神は豊かに与えてくださいます。私たちの思いもしない恵みを届けてくださいます。この不和の時代、不条理の時代、苦難の時代にこの神が在るという幸いを覚えつつ、この神が在るという福音を世に宣べ伝えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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