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ltnishinomiya

9月12日(聖霊降臨後第16主日)の式文と説教

更新日:2021年9月13日

主のみ名を讃美いたします。


兵庫県に発令されていた緊急事態宣言が30日まで延長されましたので、教会の礼拝も26日まで自粛を延長いたします。

忍耐と苦難を強いられる日々でありますが、神様の守りと導きがあることを信じ、この時に与えられている神の御心に聴いていきましょう。

私たちの苦難を神が共に担ってくださっていることは確かですから、神の守りと恵み、祝福が豊かにすべての人の上にありますように祈りを合わせてまいりましょう。


ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。



新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。


在主


牧師



※音声トラブルにより福音書朗読からとなっております。ご了承ください。


聖霊降臨後第16主日


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

 全員)主なる神様。 あなたは御子が受けられた苦しみと拒絶によって救いをもたらし、 十字架の栄光で私たちを造り変えてくださいます。 福音のため悪の誘い (いざない) から離れ、 十字架を負って御子に従うことができますように。 救い主、 主イエス ・ キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 イザヤ書 50章4節‐9節a (旧)1145頁

主の僕の忍耐

50:4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。

5主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。

6打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

7主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。

8わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。

9a見よ、主なる神が助けてくださる。


第二日課 ヤコブの手紙 3章1節‐12節 (新)424頁

舌を制御する

3:1わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。3馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。4また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。5同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。

御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。6舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。7あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。8しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。9わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。10同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。11泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。12わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。


福 音 書 マルコによる福音書 8章27節‐38節 (新)77頁

ペトロ、信仰を言い表す

8:27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。


イエス、死と復活を予告する

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」


6.讃美歌


7.説教 「助けは神から来る」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日の第一日課は苦難の僕というモチーフをもって神が救いについて啓示してくださった預言です。今日のイザヤ書50章が書かれた時代はイスラエル滅亡が滅亡し、バビロン捕囚という苦難の時代を送り、解放されエルサレム帰還の最初期に執筆されたといわれています。


イスラエルの人々は、長期にわたる捕囚によって自分たちが何故に祖国を滅ぼされ、苦難を味わったかを痛感し、悔い改めて行きました。そして、ペルシャのキュロスによってバビロン捕囚の終焉を見ました。しかしながら、このキュロスは政治的、宗教的な融和策を敷いただけで主なる神を信じたわけではありませんでした。人々はキュロスに期待しましたが、真の救い主ではなかったのです。


そのような中で語られたのが、この苦難の僕のモチーフでした。真の救い主は、私たちの元に来られ敵対者たちの誹りと嘲りに晒されています。私たちが期待するような力強さも権威も、勇壮な姿も描かれていません。そこに描かれている救い主は、苦しみにただ耐え抜いて弱く乏しい方として語られています。

おそらくイスラエルの民に関わらず、自分の欠乏、困窮を感じている人にとっては、自分を豊かにするような強い人、たくさんのモノを持っている人を望みます。


しかし、神が語られる救い主は、苦難に耐える僕でした。そして、福音においてもキリストが語られる救いの出来事において、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」ると語っています。このこともその場にいる者たちにとって自分の希望するようなキリストの姿ではなかったようです。それはペトロがイエスをいさめたという出来事によっても表されています。


そのような中で私たちもキリストにより「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われています。昔の預言者だ、エリヤだと言う者が居り、それぞれに様々な期待をしているように、私たち一人ひとりもイエスに何かを投影しています。私たちは、聖書を通してイエスが救い主であるということを知らされている者でありますが、それでも一人ひとりがキリストの内に見出している事柄には様々あります。


そのような一人ひとりの思いがありますが、聖書にはハッキリしている事柄が示されます。それは、イエスは苦難を受けて、排斥され殺されるということです。イザヤ書の苦難の僕も苦難を味わっています。そして、この苦しみ一つ一つは、私が受ける苦しみであるということです。

私たちは、生きるうちで心身に様々な苦しみを味わいます。病、仕事、家族、人間関係などが私を打ち、心身に傷を負わせます。時には批判に晒されて、恥を受けることもあります。また、社会の中においても排斥されている人々が居ます。無視され、人権を奪われ、抑圧の中に生きざるを得ない人々が居ます。


何よりもいまコロナ禍にあって、全人類が暗闇の中を歩み、不安と恐れに取りつかれています。疑心暗鬼になり、不信が世の中全体を覆っています。しかしそれでも日々は進んで行きます。行き詰りを抱えながらも、時は刻一刻と進みます。夜が来て、朝が来ます。その中で「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。」のです。


不安や悩み、苦しみが私たちを神から離そうとします。しかし、神は私たちの耳を呼び覚まし、弟子として聴き従うようにしてくださるのです。様々な情報や、言葉が私たちの耳に入ってきます。何が真実か分からず、迷い、この苦しみから救い出してくれる言葉を待ち望んでいます。しかし残念ながらこの世の言葉の内にそれは存在していません。これだけ言葉が溢れているのに、本当に私たちを苦しみから引き揚げてくれるような言葉が無いのです。


しかしながら、神は朝毎に私たちの耳を開いてくださるのです。そして、「主なる神の助け」があることを聴く者とされるのです。たとえ苦しみがあろうともこの苦しみ抜いている私と共に神はおられるという確信へと信仰は導くのです。私たちの命はいつも揺れ動きます。色々な要因によって不安に陥り、恐れを抱き、苦しみを味わいます。しかし、どんなにこの世的な力や心身をむしばむ病が襲うとも、命の確かさの内に生きることが適うのです。


だからこそ、私たちは自分の十字架、すなわち痛み、苦しみ、不安を負う者でありますが、その重荷を共に担う方が共に居られることを覚えていきたいのです。十字架など担いたくないと誰もが思うことです。十字架を負うということは、いつかそれを立てて磔にされ、死ぬ場所へと行くということです。しかしその死においても救い主は共に居られる。たとえ死んでも、神が共に居られるのですから、そこから救い出す方の御力、御手が在ると御ことばは語っているのです。


今も私たちが担う十字架、痛み、苦しみを共に担い、共に痛み、苦しんでくださっている方が共に居ます。私のこの思いを誰も理解してくれないと思います。誰も共に悲しみ、傷んでくれる人など居ない孤独を味わいます。しかし、その重荷を負って歩むことこそが神の救いを見出す道であり、神の弟子として与えられている道であることを覚えていきたいと思うのです。決して、楽な歩みではありません。しかし、確かなことはあなたの抱える苦しみ、悩み、嘆き、罪、その象徴であるあなたの十字架を共に担ってくださる方が在るという真実です。


この私の抱える思いに対して「神の助け」があります。自分自身の様々な事柄に加えて、コロナ禍という苦難の道を歩む中で改めて、神の救いが在ることを御ことばを通じて知らされている幸いを覚えます。この朝も神によって耳を開かれ、聴く者とされ、弟子とされている。神から信仰が与えられ、苦難を担いながらも希望に溢れ、救いの喜びに与かる者とされていることを感謝し、これからも神が共に居られ、私の十字架を共担ってくださっていることを覚えながら歩んでいきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

 み名があがめられますように。

 み国が来ますように。

 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

 私たちの犯した罪をお赦しください。

 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

 (アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


13. 後奏

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