9月13日(聖霊降臨後第15主日)の礼拝と説教
- ltnishinomiya
- 2020年9月13日
- 読了時間: 11分
更新日:2020年9月16日
ライブ配信を引き続き行ってい参ります。
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礼拝式文 聖霊降臨後第15主日
1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)
2. 祝福の挨拶
司式)父と子と聖霊のみ名によって 会衆)アーメン
3. キリエ
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
司式)キリストよ、憐れんでください。 会衆)キリストよ、憐れんでください。
司式)主よ、憐れんでください。 会衆)主よ、憐れんでください。
4. 讃美唱 詩編103編8‐13節
103:8主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
9永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。
10主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。
11天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
12東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
13父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、
会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン
5. 主日の祈り
全員)憐れみ深い裁き主である神様。あなたの赦しは泉のごとく尽きることがありません。私たちの石のように頑なな心を、あなたを愛し敬う心に置き換え、み旨を喜んで行うことができるようにしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
6. 聖書朗読
第一日課 創世記 50章15節‐21節 (旧)92頁
赦しの再確認
50:15ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。16そこで、人を介してヨセフに言った。
「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。17『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
これを聞いて、ヨセフは涙を流した。18やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、19ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。20あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。21どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
兄弟を裁いてはならない
14:1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
11こう書いてあります。
「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
福音書 マタイによる福音書 18章21節‐35節 (新)35頁
「仲間を赦さない家来」のたとえ
18:21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
7. 讃美歌 369番

8. 説教 「赦されているのだから」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブから寵愛を受ける末息子ヨセフに対する嫉妬とヨセフの思い上がりゆえにエジプトへと売られてしまいました。しかし、ヨセフはそこで夢の解き明かしの力を買われてエジプトの宰相となり、当時襲った飢饉から多くの人々を救いました。
この弟に対する仕打ちを兄弟たちは、ヨセフに対して謝罪をします。この謝罪は取り返しのつかないことをしたというものではなく、「ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」」と記されているように、長子社会であるにもかかわらず、兄たちが弟にひれ伏し、「僕です」と申し出るほどに神と人との前に自分たちの罪を悔い改めたのです。
本来であれば弟を殺したと同等の罪を犯したような兄弟たちです。その罪は非常に重いはずです。しかしながら、ヨセフの言葉にあるように、この兄弟たちの罪の出来事が、大いなる神の御救いの出来事へと転換していきました。まさに私たちの人知を超えるような神の御力が働いていることを示しています。
神の赦しと一口に私たちは言いますが、真実は私たちには到底理解しがたい出来事なのです。何故ならば、罪を犯した者は本来であればその罪に応じて罰や償いをしなければなりません。それが常識です。そして、聖書では罪の代償、報いは、死であるとも語られています。つまり、私たちは本来であれば死すべき存在でしかない。そういう虚しい者でしかないという現実が立ちはだかり、その壁は決して超えることはできないのです。
「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。」(詩編19:12口語訳)とあるように私たちは自分で犯した罪を数え上げることはできません。ですから、罪を償ったと思ったとしても、知らずに犯した罪、隠れた罪には気づくことができないのですから、自分自身で自分を救うことも、義とすることも、神の御前に相応しい者にもなれないのです。
大げさな物言いではなく、私たちが百万回神に罪を犯したことを気づいて、償いをしたとしても、まさにその何倍、何十倍、何百倍、何千倍の罪を犯したに違いないのです。
私たちは罪に塗れています。誰も聖ではありえない、誰も神の救いに自ら与ることなどできません。故に私たちは滅びる、死の力に呑み込まれ、朽ちるほかない命でしかない。これが私たちの本質であり、本当の姿なのです。
そういう死と滅びへと向かう私たちに対して神は今日の譬え話にあるように憐みをもって私たちと関りを持ってくださるのです。罪人でしかないのですから、本来であれば神との関係は断たれた状態です。しかし、そうにもかかわらず、神は私たちに憐みを向けてくださっているのです。それは可哀そうだということではなく、私たちの抱える罪の重さ、痛み、哀しみ、嘆きのすべてを深い共感をもって感じ取ってくださっているということです。
そして、神自らが赦しを与え、私たちを救いへと導いてくださるのです。この神の出来事は、まさに「7の70倍の赦し」を示します。これは単純な掛け算ではなく、無限の計り知れない赦しを意味しています。私たちの罪は重く、あまりにも多い、自分自身で気づくこともできない罪をも犯している。にもかかわらず、神は、この私の罪の痛み、重み、苦しみ、悲しみ、嘆きをご自分のものとしてくださり、それらを帳消しにしてくださっているのです。
「帳消し」という言葉に着目すると、原語は「解放」「自由」を意味します。時として罪の縄目という言葉を聞くことがあります。その縄目は固く結ばれています。先ほどから述べているように、気づいている罪、気づいていない罪と私たちには多すぎるその重荷、固すぎるこの罪の縄目は自分で解くことはできないのです。そして、私たちはその縄目に囚われたまま、死へと連れていかれていくのです。私たちは死ぬばかりの者です。それは避けられないと考えます。
しかしながら、神はこの罪に囚われた哀れな罪人に対して向けられた憐みによって、私たちは解放され、自由とされたとキリストは語られます。この自由は好き勝手する自由ではありません。この自由は、神の憐み、すなわち愛によって結ばれている自由です。それは新たな束縛のように思われます。しかしながら、そうではないのです。
この自由は、私たちが罪人にもかかわらず、他者や世に対して神の愛を顕す働きへと促し、私たち自身も神の憐みによって罪の縄目から解放されたこと、すなわち救われたことを受け取る時、奉仕や他者への労り、他者のために生きることこそが真であることに気が付かされるのです。そうして、神の憐みと赦しがすべての人に宣べ伝えられるのです。
罪人であるという本質は変わりません。しかしながら、その罪人を赦し、神の憐み、愛を伝える者へと造りかえられます。だからこそ、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる」ということの逆説として、私たち一人ひとりが兄弟、すなわち隣人、出会う人たち一人ひとりに対して赦しと憐みと愛をもって接するとき、神の愛は豊かに働き、すべての人が神の愛に触れ、神の御姿、御心に触れるようになるのです。
罪人の働きを、「神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださ」るのです。私たち一人ひとりの働きが、多くの人の命を救う働きとされている驚きを覚えます。そのような働きを与えられていることに恐れを抱きます。しかし、憐み深い神が、豊かな御手を伸べて、私たちを助け導いてくださっています。
この働きには人間の思いではなく、神御自身、神の御心が働いています。この神が私たちを通して豊かにこの世界に、社会に現在するのです。この神と共に世に、神の器とされながら、自由にされ、神の憐み、愛、光を照らし出す者とされています。
パウロは「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神に献げなさい。」(ローマ6:13)と勧めています。私たちは神によって自由とされ、神にこの身を献げ、福音宣教のために共に歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
9. 信仰告白
司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。
全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)
10. 献金
11. 教会の祈り
12. 主の祈り
司式)祈りましょう
全員)天の父よ。
み名があがめられますように。
み国が来ますように。
み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
私たちに今日もこの日の糧をお与えください。
私たちに罪を犯した者を赦しましたから、
私たちの犯した罪をお赦しください。
私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。
(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)
(アーメン)
13. 祝福
司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。
主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。
父と子と聖霊のみ名によって。
会衆)アーメン、アーメン、アーメン。
14. 後奏
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