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ltnishinomiya

9月19日(聖霊降臨後第17主日)の式文と説教

主のみ名を讃美いたします。

やっと水曜日の午後に第一回目のワクチン接種を受けてきました。

ベルトコンベアのように手続きを踏んでいき、接種までものの五分で終わりました。

次の日に腕が上がらなくなりましたが、それだけで済みました。第二回目はどうなることやらといった感じですが、多少は安心しました。

コロナウイルス撃退はおそらく無理でしょう。どう付き合っていくか。

そして、私たちの生活をどのようにして変えるところを変えて、大切なことは遺していくか、これを考えていくかだろうと最近は思います。

コロナウイルスによって誰もが有無を言わさず今までの生き方を変えさせられ、どう生きるかが問われています。

そのような中で私たちキリスト者は常にコロナ前、コロナ後に関わらず、聖書の御ことばに立ちながら歩んでいかなければなりません。

神の御ことばに耳を傾ける信仰と誠実さを与えてくださいと祈りつつ共に歩んでまいりましょう。


先週は音声トラブルで礼拝配信がごたついてしまい申し訳ありませんでした。

原因は分かりましたので、明日の礼拝はそのようなことは無いかと思います。


いつものようにユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。 日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube 新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。 在主 牧師


聖霊降臨後第17主日礼拝


1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3.キリエ 

司式)主よ、憐れんでください。   

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4.主日の祈り

 全員)導きの主である神様。あなたは私たちをみもとに引き寄せ、愛する子として受け入れてくださいます。嫉みと野心をことごとく捨てて、御子のしもべとなり、あなたの知恵の道を歩むことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5.聖書朗読 

第一日課 エレミヤ書 11章18節‐20節 (旧)1198頁 

エレミヤの訴え

11:18主が知らせてくださったので/わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。

19わたしは、飼いならされた小羊が/屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし/生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」

20万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。


第二日課:ヤコブの手紙 3章13節‐4章3節, 7節‐8節a (新)424頁

上からの知恵

3:13あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。14しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。15そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。16ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。17上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。18義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。


神に服従しなさい

4:1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。2あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。


7だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。8神に近づきなさい。


福音書:マルコによる福音書 9章30節‐37節 (新)79頁

再び自分の死と復活を予告する

9:30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。


いちばん偉い者

33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


6. 讃美歌




7. 説教 「私の思いを神に任せる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


キリストは、再びご自身の受難による死と復活を予告いたします。一回目の時同様に弟子たちは、その真意をはかりかねている様子が伝わってきます。その様子を「この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と書いています。


キリストの受難と復活とは、罪人である私たちに神ご自身が仕えてくださり、私たちのためにご自身の命をもって贖いの仔羊となられた出来事です。すなわち、そこに強さや権威といったものは一切ありません。キリストはご自身がその道を今まさに歩んでいることを弟子たちに告げました。しかしながら、弟子たちはキリストと共にある道中で「だれがいちばん偉いか」議論していたのです。


キリストの御ことばを本当に理解していない、できない愚かな弟子たちの姿を浮き彫りにします。しかしながら、この弟子たちの姿は正に私たちの姿そのものを映し出しているように思うのです。今まさに、私たちの社会においてはある政党の総裁が誰になるかと躍起になっており、その裏には様々な思惑があり、まさにこの弟子たちのように「だれがいちばん偉いか」を議論しています。


人は誰しもが上に立つことを目指します。国のトップ、会社の社長、クラスの委員長、学校の校長、警察などどこかの組織に所属すればおのずとそのような思いが沸き起こってくるようです。そのような時に起こることは何でしょうか。それは力のない者、弱い者を邪魔者扱いしていくようになります。自分の力を上に置くためには、このような人たちは足を引っ張ると考えられ、蹴落とされていくのです。


では、神の御国について考えてみるならば、そこには入れるのは完全に正しい者だと考えられています。罪人と言われているような人は入れません。そうであるならば、皆さん考えてみてください。誰が神の国に入れるでしょうか。律法には偽証してはならないとありますが、たとえ小さなものでも嘘をついたことがないと言い切れる人は居るでしょうか。人を殺してはならないと書かれていますが、人殺しはしてなくとも、誰かを無視して、誰かの存在を無いもののように扱ったことは無いでしょうか。路上で困っている人を無視したことは無かったでしょうか。


十戒の十の戒めを思い出し、一つでも、小さなことであったとしてもそれを破っているのであれば罪人でしかありません。そうであるならば、この私は神の御国に相応しくない存在でしかありません。誰もそこに行く資格など持ちえないということに気が付かされるのです。


また、上に立つ者の姿において往々にして起こる事柄は、下の者への無配慮です。政治の世界だけでなく、社会のそこかしこで起こっていることを私たちは様々に見聞きします。昨今、問題になっている入管問題においても本人が苦しんでいるのに救急車を追い返す、後ろ手に手錠をして収容室に何時間も放置するなど、上に立つ者が下の者を抑圧し、さらに弱めている現実があります。


ハッキリ言ってしまえば、私たちの世界は決して美しくも、優しくもないのです。誰かを受け入れることの難しい世界の中で私たちは生きています。そこかしこに破れがあり、悲しんでいる人、泣いている人が居ます。そして、私たち自身もその一端に手を貸しています。誰かを愛することをせず、無視し、放置している。他者の痛みを受け入れることに躊躇をしてしまう。それが人間の限界です。誰も奇麗で、素晴らしい人など居ないのです。誰も神の御国に相応しい人など居ない。救うに値しない。それが人間です。それは私なのです。


そのような私たちの現実に対して、キリストは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語ります。私たちがこの世界で目指す生き方とは逆方向です。下へ、下へと行くこと、これこそが神の御国においてのあるべき姿であると語るのです。そして、実にキリストは、救い主、神の御子であるにもかかわらず、世に降り、私たち罪人のために仕えてくださいました。


誰もが見捨てた病人のために癒しを、誰もが蔑んだ女性を慰め、誰もが忌み嫌う徴税人を弟子としました。それは偉くなるため、世における権威においては相手にしない人々です。むしろそのような人と付き合うことは、マイナスだと考えられえていました。いわゆるこれらの罪人と言われている人々と居ること、しかも権威者としてではなくその人々のために仕えて生きることこそが真の救い主の在り方であるとキリストはそのご生涯において全うされたのです。


本来であれば、誰からも相手にされず、受け入れられない人々です。そして、これらの人々は私自身の姿を映し出しています。誰も相応しくない。ましてや神の御国においても相応しくない人です。しかし、神はこの相応しくない一人ひとりを受け入れ、私たち一人ひとりを御国に招くために御子を十字架の死によって贖いだし、復活という出来事を通して私たち一人ひとりを御国に相応しい者としてくださったのです。


お独りの命によって、すべての人の赦しと癒しと回復が成し遂げられたのです。神がこの罪人を受け入れてくださっている。だからこそ、私たちもまた神のこの御業を受け入れ、神の御子の贖いの御業に与かり、復活の命の内に生かされていることを信じていくのです。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

と語られたキリストの姿には、まずキリストが子どもを受け入れたからこそ、子どもはキリストのみ旨の中で安心していられます。


自分が受け入れられているという安心、平安、愛があるからこそ、キリストの十字架の死も復活も恵みとして私たちに活き活きと働くのです。この神の深い愛に抱かれて私たち一人ひとりの存在が在ります。この罪人の私が相応しくないのに、神の御腕の中にあるという平安を与えられているのです。

本来であれば、私たちは弱さ、小ささを受け入れることは中々叶いません。むしろそれは悪いものであるとみなします。しかし今日の福音において、この考えが誤りであることを教えられました。


それらを受け入れてくださるのは神です。私は受け入れることができないかもしれない、でも神はこの私の弱さ、小ささ、罪を受け入れ、その御腕の中に招いてくださっている。赦しを与えてくださっているのです。私自身によっては弱さや小ささ、罪深さは克服できないでしょう。しかしキリストの十字架の死と復活によって私たちはそれを克服し、神によって豊かにされ、強くされ、義しい人とされているのです。


この神の恵みの内に生かされていることを受け入れていきたいと思うのです。弱さなどを深く痛感しながらも、この弱さに囚われて、悲しみ、痛み、嘆いている私を受け入れてくださる方が居るという恵みを刻んでいきたいと思います。と、同時にこの私と同じように傷んでいる人、悲しんでいる人が世界には沢山おられます。この福音を私たちは占有するのではなく、神から与えられたのですから、喜んで隣人と分かち合い、神の御国の実現のためにこの福音を宣べ伝えていき、具体的に教会の働きとしていきましょう。


私たちが神の福音を受け入れることができるのは、神が罪人、弱い私、傷んでいる私、悩んでいる私、悲しんでいる私を受け入れその御腕の内に招き、受け入れてくださっていることに他ならない。この私のために命をさえ惜しまず与えたもう神の御手に守られている平和を覚えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8.信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9.献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

 み名があがめられますように。

 み国が来ますように。

 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

 私たちの犯した罪をお赦しください。

 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

 (アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

 父と子と聖霊のみ名によって。


会衆)


   アー    メン    アー     メン    ア   ー   ー  ー  メン


13. 後奏

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