top of page
ltnishinomiya

9月20日(聖霊降臨後第16主日)の礼拝と説教

連休を迎えています。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

明日もいつも通り10時30分から

どうぞ、皆様の予定が神様のお守りの内にありますようにお祈りしています。


ライブ配信を引き続き行ってい参ります。

以下のリンクを選択してくだされば明日の10時30分頃よりご覧になれます。

 また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。

これまでの礼拝をアップしてありますし、本日の礼拝後に本日分をアップロードいたします。

どうぞ、まだまだ残暑が続いています。暑さ対策、感染対策をとりくれぐれもお気をつけてお過ごしください。


礼拝式文 聖霊降臨後第16主日

1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)

2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン

3. キリエ 

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。

4. 讃美唱 詩編145編1‐8節

145:1【賛美。ダビデの詩。】わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。

2絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。

3大いなる主、限りなく賛美される主/大きな御業は究めることもできません。

4人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。

5あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。

6人々が恐るべき御力について語りますように。大きな御業をわたしは数え上げます。

7人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。

8主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。

司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、

会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

5. 主日の祈り

全員)全能・永遠の神様。あなたはしもべである私たちに、限りない慈しみをあらわしてくださいます。自分の力に依り頼むことの出来ない私たちを憐れみ深く裁き、御子が示した心の広さを持つことができるように育ててください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

6. 聖書朗読

第一日課 ヨナ書 3章10節‐4章11節 (旧)1447頁

3:10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

4:1ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。2彼は、主に訴えた。

「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。3主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」

4主は言われた。

「お前は怒るが、それは正しいことか。」

5そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。

6すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。7ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。8日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。

「生きているよりも、死ぬ方がましです。」

9神はヨナに言われた。

「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」

彼は言った。

「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」

10すると、主はこう言われた。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

第二日課 フィリピの信徒への手紙 1章21節‐30節 (新)362頁

1:21わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

福 音 書 マタイによる福音書 20章1節‐16節 (新)38頁

「ぶどう園の労働者」のたとえ

20:1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11それで、受け取ると、主人に不平を言った。12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

7. 讃美歌 391番(教会讃美歌)



8. 説教 「気前の良い神様」 竹田 大地牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

私たちの世の中は、どこか必要な人間と不要な人間という線引きがあります。相模原市で起こった障がい者施設「津久井やまゆり園」で起こった殺傷事件の犯人である植松被告は、「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」という供述をし、利用者、職員19名を刺殺し、26名に重軽傷を負わせました。

今日与えられている福音には、仕事にありつけずに夕方になっても広場に取り残されている人々が居ました。もしかしたらこの人たちは、誰からも必要とされていなかった人だったかもしれません。この人を雇った所で何の役にも立たないと思われていた人かもしれません。

逆に朝から雇われた労働者たちは、体躯もよく、ぶどう園の労働に耐えうる体力を持っている相応しい人だったかもしれません。労働者として、有能で、役に立つ人と考えられているような人だったからこそ、朝方から声を掛けられ仕事にありつけたのかもしれません。

そういう二極の人間の姿を私たちはこのキリストの譬えから垣間見ることができます。旧約の日課のヨナ書も同様のことが言えます。ヨナはユダヤ人であり、神のことをよく理解していました。大魚の腹の中では詩編を引用して祈りましたし、今日の神との対話の中でも神を「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」と詩編を引用して述べています。

彼は、ニネベの人々が救われたことに不満を抱いています。何故ならば、ニネベの人は憎きアッシリアの人々、すなわち異邦人であり、律法に照らすならば罪人でした。またユダヤ人の人々からするならばこの世的に言っても敵でもあったわけです。しかもニネベはアッシリアの首都です。

そのような所に住んでいる人々を神がお赦しに成ったことに不満を抱いている。その背景には、神が「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」であることを知っていたからです。しかし、この事をヨナは知っていてなお、なぜ異邦人であり、敵であるニネベの人々が赦されるのか、義憤を抱くのです。

しかしこの義憤は、神の義に対する憤りでなく、神を神とするうちに自分の考えや心が凝り固まり、選民意識や、人よりも神のことを知っているという自負心、また自分自身の考えの方が神の考えより義しいという慢心からくる義憤です。

義しくない者が救われることをヨナは知っていましたが、それにも増して神の恵み深さ、赦しの不思議さを許せなくなってしまっているのです。

このように人は、自分たち自身を分断しようとします。宗教的に救いに与るべき者、そうでない者、この世的にも必要な者、不要な者というように線引きをし、それが正しいことだと思い込んでいます。先日の新聞でもコロナ禍によって障がい者の友人が雇い止めをされてしまったという投稿がありました。

そういう考えが蔓延しているのです。だからこそ、朝から働いていた労働者も不満を述べるのです。私の言い分の方が義しい、多く働いた者が、必要とされている者が相応しい報酬に与るべきだと。「最後に来たこの連中」という言い草からも夕方まで広場に取り残されていた労働者を下に見ているように受け取れます。

そういう人間の凝り固まり、頑なになった心を神はご存じなのです。しかし、それを神は咎めるのではなく、すべての労働者を「自分のもの」と語るように、神御自身、私たち一人ひとりを分け隔てることなく自分のものとしてくださる。そして、すべての人に等しく豊かな恵みを与えてくださるのです。

すべての者が等しい存在とされていると残念ながらこの世の人々は考えません。何かしらの優位性を見いだそうとします。それを見いだせない人々は、自分は不要な人間なのではないかと悩み、哀しみを覚えます。そういう現実が私たちの世の中に現実として横たわっているのです。

そのような中で今日語られている御ことばは、誰であれ神の働きをなす者として召し出され、等しく神から恵みをいただきながら生かされている存在であるということです。そこには弱い者が強くされ、強いものが弱くされるという逆転があるのではありません。神にとって私たち一人ひとりが誰であれ、どのような負い目や病を負っていようと、この世的に地位が高くとも、等しく恵みを与えるべき存在であるという真理です。

この真理に従って神は、私たちを養い、育ててくださっているのです。だから、誰でも生きるべきなのです。誰もが必要な存在であり、誰も否定しない、ぶどう園すなわち、神の国のために働く者とされているのです。0歳で洗礼を受けたから恵みが多いのでもなく、亡くなる直前で洗礼を受けたから恵みが少ないのではありません。

そういう神の平等の中に私たちの命が在るところが神の国なのです。ですから私たちは本質的には豊かな者なのです。この世的な物差しは神の国に介在しません。有為な人、病を負っている人、障がいを負っている人、社会的地位の高い人、誰しもが神の眼には等しく愛する存在であり、大切な者として神の国で生きる者とされています。

この世で生きていると「なぜ私は苦しめられているのか」「なぜあの人は多くを得ているのか」「私の方が正しいではないか」と神に対して私たちは時として憤ります。しかしそれは真理ではありません。真理は、誰も滅びることなく、神の愛のもとに在り、救いへと導かれているのです。

このことを私たちは改めて心に刻みながら、自分自身が神から愛された存在であり、神によって豊かな恵みと慈しみの内にあることを覚えながら、この世に破れが在り、愛を感じられず苦しんでいる人、自分の義しさを振りかざし人を傷つける世に対して、私たちは神の国に生きる者とされているというこの福音を宣べ伝えてまいりましょう。

この福音を待ち望んでいる人が沢山います。神が何も惜しまずに私たちに慈しみと愛と恵みを豊かに注いでくださっているという真理こそが人を活かし、人と人とが互いに愛し合う喜びの世となることを確信をもって神の働き人として生きてまいりましょう。

すべての人が神共にある命であることを「宣教」という方法をとり、この希望、光こそが真に人を活かし、神の御心であることを信じて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9. 信仰告白

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)

10. 献金

11. 教会の祈り

12. 主の祈り

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)

13. 祝福

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

会衆)アーメン、アーメン、アーメン。

後奏

閲覧数:35回0件のコメント

Comments


bottom of page