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ltnishinomiya

9月27日(聖霊降臨後第17主日)の礼拝と説教

すっかり秋らしい気候となってきました。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。明日も10時30分から短縮式文で礼拝を執り行ってまいります。

どうぞ皆さんお気をつけてお越しください。

ご一緒に神様の恵みに与かる時をご一緒いたしましょう。


ライブ配信を引き続き行ってい参ります。

以下のリンクを選択してくだされば明日の10時30分頃よりご覧になれます。

 また、礼拝後は教会のYouTube(ユーチューブ)に掲載しておきますので、そちらからでもいつでもご覧になれます。以下のリンクを選択してください。

これまでの礼拝をアップしてありますし、本日の礼拝後に本日分をアップロードいたします。


礼拝式文 聖霊降臨後第17主日


1.    前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)

2.    祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって  会衆)アーメン

3.    キリエ 

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。  会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。      会衆)主よ、憐れんでください。

4.    讃美唱 詩編25編1‐9節

25:1【賛美。ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み

2わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。

3あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。

4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。

5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

6主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。

7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。

8主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。

9裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。

司式)父、み子、聖霊の神にみ栄えあれ、

会衆)初めも今ものちも、世々に絶えず。アーメン

5.    主日の祈り

全員)命の与え主・愛の神様。あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

6.    聖書朗読

第一日課 エゼキエル書 18章1節‐4節,25節‐32節 (旧)1321頁

各人の責任

18:1主の言葉がわたしに臨んだ。2「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。

『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。

3わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

25それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。

30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

第二日課 フィリピの信徒への手紙 2章1節‐13節 (新)362頁

キリストを模範とせよ

2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

共に喜ぶ

12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです

福 音 書 マタイによる福音書 21章23節‐32節 (新)41頁

権威についての問答

21:23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

「二人の息子」のたとえ

28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

7.    讃美歌 249番

 


8.    説教 「悔い改めと赦し」 竹田 大地牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

救いとは、信仰の恵みです。では、その救いは何によって確信を得られるのでしょうか。そのヒントが、今日の第一日課に示されています。「わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか」と神から問われている預言です。

神は完全なる方であり、まったく義なる方です。その神が私たちに律法を与え、神と人との義しい在り方をお示しくださいました。律法が与えられたのは、「わたしの宝」(出エ19:5)「祭司の王国、聖なる国民」(出エ19:6)「罪を犯させないようにするため」(出エ20:20)でした。

神が私たち一人ひとりを宝としたいと願ってくださっているということは、私たち一人ひとりを愛し、大切に思ってくださり、私たちが滅びること、死ぬことを良しとしておられないからです。罪の報酬が死であるのですから、罪人の歩みのゴールは死です。その束縛、呪縛から神は私たちを遠ざけ、命の源である神の御許に生きるように導いてくださっているのです。

本来的には、律法とはこのような神の御心によって与えられたものでした。しかしながら、そのような神の御心、思いも空しく、私たちはこの律法を破り、罪を犯してしまっています。エゼキエルの時代もそうでした。民たちは神から離れ、神に従うのでなく、自分の思い、自分の宝、自分の利を守るために生きてしまい、律法を追い出してしまっていたのです。

翻って、私たちもこの問いに対して誠実に向き合わなければなりません。果たして正しいのは誰なのか、それは神であるはずです。私たち自身が神との契約を破り、罪を犯しているという真実を見つめないのであれば、私たちの命は死へと向かうばかりです。

この罪人である私を神は見ておられます。そして、神は罪人である私にもかかわらず、それでも私たち一人ひとりを宝とし、罪から救い出したいと御心に留めてくださっているのです。それは「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という神の預言の御ことばにもその思いが溢れています。

しかしながら、それでもなお、私たちは罪を犯し続けます。どうしようもない愚かさを背負って生きている存在でしかありません。そのような私たちのために神はキリストをこの世に遣わされたのです。しかもキリストは、私たちの願うような救い主として来られたのではありませんでした。

フィリピの信徒に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とパウロが証したように十字架の死によって救いを成し遂げられました。

この出来事は、もともとはキリストが罪を犯したゆえに死の報酬を受けたのだと誰もが考えていました。キリストの自己責任によって与えられたもの、キリストが呪われて、そのような死を遂げたのだと考えられていました。しかしそうではありませんでした。

このどうしようもない罪人である「私のため」にキリストは十字架に架かられ死んでくださったのです。キリストを信じていない人にとっては、キリストの十字架はただの木の梁に打ち付けられた罪人にすぎませんが、神の救いを信じ、十字架のキリストを見つめる時、この十字架が「わたしのために」キリストが死の呪いによって死んだことに気が付かされるのです。

信仰によって大逆転が起こるのです。信仰に依らなければ、キリストの死は無味無臭です。しかしながら、信仰によってキリストの死を受け取る時、その死が死すべき存在である「私のため」であり、私たちが生きるようにと願っておられる神の愛の出来事であるという非常に味わい深い恵み、喜び、慰め、癒しとなるのです。

そうであるならば、私たちがキリストを十字架に向かわせたということに気が付きます。私の罪の故に、死ぬべき者は私であったはずなのに、救い主である方が、代わりにそこへと歩みを進め、そこに到達してくださった。私たちは神に対して取り返しのつかない事をしてしまった、しているということに痛まなければなりません。

その思いを神に向けるのです。死すべき者であったのは私です。十字架に上げられるべきは私です。そのような私にもかかわらず、あなたが死んでくださるとは、あなたが十字架に上げられるとは何事なのかと、心からの悔い改めへとおのずと導かれます。

そして、おのずとキリストを信じる信仰こそが救いへと導く道であることを知るのです。罪に対する償い、報いをすることではなく、ただ一心にこの罪人のために死んでくださったキリストを信じる信仰によって私たちは真の命を生きる者とされ、死ぬことはないという確信に至るのです。

「悔い改めと赦し」という説教題を付けましたが、この恵みは信仰によって唯一到達することのできる出来事です。この信仰の根本には、神が私たちを宝とし、愛し、慈しんでくださっているという真理が在ります。この愛、恵みを私たちは宣べ伝えるために召されました。

キリストの弟子たちも罪人でした。パウロもキリスト教の迫害者の先頭を走っていました。そのような者たちを神は愛し、召し出し、神の大いなる働きの同労者としてくださったように、私たちも同様に神の同労者とされています。

召し出された者を確たるものにするのが信仰であり、これによって神の愛を深く感得し、悔い改めていくことの大切さと赦しの恵みを与えられます。この信仰からくる確信が、神以外のものを恐れることも、何かに揺り動かされることもない命とされている真理に気が付かされ、弱くとも強くされるのです。

今の社会には様々な声や、出来事、物に心を揺り動かされている人々が沢山おられ、弱くされています。そのような中でこの信仰からくる確信と喜びがいかに恵み深く、幸いであるかを伝えることは本当に大切だと思います。ですから私たちはこの神から与えられる喜びをこれからも「「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ」ながら歩み、世に証しし、神の愛と恵みを示していきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

9.    信仰告白

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)

10. 献金

11. 教会の祈り

12. 主の祈り

司式)祈りましょう

全員)天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

私たちの犯した罪をお赦しください。

私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

(み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

(アーメン)

13. 祝福

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。



会衆)アーメン、アーメン、アーメン。

後奏

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