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ltnishinomiya

9月5日(聖霊降臨後第15主日)の式文と説教

更新日:2021年9月5日

主のみ名を讃美いたします。


早いものでもう9月となりました。

コロナウイルスによって私たちは季節の移り変わりも十分に楽しめなくなっているように感じているのは私だけでしょうか。

そして、それを誰かと分かち合う機会も奪われてしまっています。自由に人と会うことの叶わない状況に誰もが寂しさ、悲しさ、痛み、また時には憤りも覚えています。


日本には美しい四季があります。これから段々と夙川の木々が紅葉をしていくのを楽しみたいと改めて思わされます。

皆さんもどうぞ周りの四季を楽しんで、神様の創造の御業を讃美してまいりましょう。


ユーチューブから礼拝の模様を配信しています。 10時20分から始まります。 以下の「日本福音ルーテル西宮教会 - YouTube」という文字を10時20分頃にクリック(選択)していただければご覧になれます。 式文につきましては、申し訳ございませんが、流れのみを概要欄に掲載しています。聖書などはご自身のお用いいただくか、朗読をお聞きください。どうぞご了承ください。



新しい一週間皆さんの生活と健康が守られますようにお祈りしています。


在主


牧師


聖霊降臨後第15主日





1. 前奏 (神様への思いを向ける準備をいたしましょう)


2. 祝福の挨拶

司式)父と子と聖霊のみ名によって

 会衆)アーメン


3. キリエ

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。

司式)キリストよ、憐れんでください。

 会衆)キリストよ、憐れんでください。

司式)主よ、憐れんでください。

 会衆)主よ、憐れんでください。


4. 主日の祈り

 全員)恵みの神様。あなたはいつの世でも病いを健康に、死を命に造り変えてくださいます。一つになって、あなたの約束を全世界に宣べ伝える民となるために、私たちと共におられるあなたの力に目を開くことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン


5. 聖書朗読

第一日課 イザヤ書 35章4節‐7節a (旧)1116頁 

35:4心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」


5そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。

6そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

7熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。


第二日課 ヤコブの手紙 2章1節‐17節 (新)422頁

人を分け隔てしてはならない

2:1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。

3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。


行いを欠く信仰は死んだもの

14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。


福音書 マルコによる福音書 7章24節‐37節 (新)75頁

シリア・フェニキアの女の信仰

7:24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。31それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。


耳が聞こえず舌の回らない人をいやす

32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


6.讃美歌



7.説教 「神は来て救われる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


フェニキアの女性、耳が聞こえず舌の回らない人、この両名はユダヤ教の律法によるならば罪人です。女性は異邦人として、耳が聞こえず舌の回らない人は病人として汚れた存在として社会的共同体的に差別され、交わりから閉め出された存在でした。

つまり彼らは孤独、痛み、悲しみ、嘆きといった一切のものを所有し続けて生きねばならない状態に置かれていたということです。


そのような中でイエスが来られたのです。彼らはおそらく既にイエスが様々な奇跡を行っていたことを知っていたのでしょう。ゲネサレトでもイエスの行くところには大勢の人々がイエスが居ると知ると病人を連れてきたというように、このティルスにおいても同様の状況であったことは想像に難くないことです。


そして、まず娘が悪霊にとりつかれたフェニキアの異教の女が登場します。先ほども言いましたように、彼女は異教の者です。ユダヤ教徒からするならば彼女のように異教の者と交流をすることは忌避されていました。また、異教の者に主なる神、ヤハウェの救いが訪れるとは考えられていませんでした。この神の救いはユダヤ人たちに与えられるものであり、異教の者にはむしろ裁きが与えられると考えられていたのです。


この女性は、そのようなユダヤ教の考えを知っていたのです。それはイエスとのやり取りからわかります。しかしながら、彼女はそれを承知の上で「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と答えるのです。ここで重要なことは、彼女の執念ではありません。彼女のイエスに対する呼びかけです。彼女はイエスに向かって「主よ」と呼びかけています。このイエスに対する呼びかけは、マルコ福音書においては唯一のイエスに対する「主よ」という呼びかけです。


つまり、彼女は異教の者でありながらも、イエスが主である、神であるということを見出していたのです。ほかのユダヤ人や弟子たちですら「ラビ」「先生」というように指導者としてイエスを呼び掛けてはいましたが、イエスを「主」とは呼びませんでした。すなわち、彼女は娘が救われるためには、人間の力ではなく、神の力が不可欠であり、イエスこそがその力を啓示される唯一の方であるということをこの「主よ」という呼びかけによって証ししたのです。


ユダヤ教には律法という様々な教え、戒律があります。これを守ることによって救いに至ると多くの人々は考えていました。先週の説教でも触れましたが、イエスは人々が形だけに囚われ、神の言葉をないがしろにし、自分本位のために律法を利用していることを鋭く指摘をしました。

しかしこの女性は、イエスを信じ、主と認める知恵を有していました。この方の言葉こそが力であり、この方が語る言葉には力があり、たちまちに悪霊も追い出してくれるだろうという祈りと願いをもって主に真剣に向き合おうとする姿が示されています。また、自分が神の御前において相応しくないことを十分に承知しながらも、謙ってパン屑さえ、すなわち人の目に小さく見えるものでも、それが神の御力であれば癒され、救われるという信仰を示したのです。


また、耳が聞こえず舌の回らない人もまた自分が汚れた存在であるということによって、何をしても救いに至ることのできない行き詰りの中で生きていました。そのような思いを抱えていますから、自分がこのままに死ぬことに大きな恐れがあったことでしょう。救わぬままに死んでいくことの悲しみや痛みを常に抱えて生きていかなければなかったのです。


即ち、両者とも死という事柄に対して大きな恐れを覚え、暗闇の中を歩んでいたのです。前者は、愛する娘が、後者は自分自身が、そういう力に囚われたままで生きることの恐れを抱えています。それは翻って私たち一人ひとりにも言えることでしょう。今、コロナウイルスによって私たちのすぐそばに死が迫っていることを感じずにはいられません。愛する家族が感染したら、自分が感染したらと考えると、もしかしたら病院に入ることもできずに不安な時を過ごさないといけなくなるかもしれない。死んでしまうかもしれないという恐れがあります。まさに今の時代は、誰もが死の暗闇の中を歩んでいます。


そのような中で第一日課の「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」というイザヤの預言が響いてくるのです。暗闇の中で神は来られる、だから雄々しくあれ、恐れるなと語りかけてくださるのです。死は迫っている、しかし私があなたを救うため、死の力を滅ぼすために来ると語られています。


シリア・フェニキアの女にしても、耳が聞こえず舌の回らない人にしても彼らは異邦人、異教徒であり救いなど齎される者とは考えられていなかったでしょう。しかし、神は来られる。死の恐れ、罪による痛み、悲しみ、自分の抱える悩みや嘆き、恐れを取り除くためにイエスは来られるのです。


救い主は、私たちが何かをしたからご利益のように救いを与えるのではありません。むしろ神を真に待ち望み、求める人のもとに来てくださるのです。「5いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人」(詩146:5)とあるように、死の恐れがあり、暗闇を歩まなければならない中で心から神への信仰をもって神が来られることを待ち望んでいきたいと思うのです。


私たちはコロナウイルスによって様々な出来事を通して死を意識し、死が間近にあることを意識せざるを得ません。また、それ以外にもお一人おひとりがそれぞれに病気のこと、介護のこと、生活のこと、家族のこと、仕事のことなど沢山に恐れを抱える者です。しかし、信仰が与えられています。そして、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。」という御ことばを聴く者とされています。


恐れや死に目を向けるのではなく、神を見つめながら、救いが神から必ず齎されるという福音を信じ、自分自身の抱える思いを神に、キリストに告白していきましょう。神はその私たちの思いを聞き届け、私たちの許に来てくださいます。

私たちは恐れに囚われ、死の力に晒された弱い命しか持っていません。そのような弱く乏しい者に神の救いの力が注がれ、神の守りの内に命が置かれています。そのような私たちを捨て去り、強い者を神は選ぶのではなく、むしろ「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさっ」ています。


この喜びと力強さ、平安を覚えて歩んでまいりましょう。神が私たちの許に来てくださっています。「来る」という約束をイエスにおいて成し遂げてくださっています。この恐れの多い時に生かされながら、今日与えられている福音を心にとめながら、神から与えられる信仰によって、心から神の救いが来てくださっていることを覚えてまいりましょう。「雄々しくあれ、恐れるな」の信仰が与えられている確かさに生きてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


8. 信仰告白 (起立)

司式)使徒信条によって、信仰の告白を共にしましょう。

 全員)天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊 によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。聖霊を私は信じます。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。(アーメン)


9. 献金


10. 教会の祈り


11. 主の祈り (起立)

司式)祈りましょう

 全員)天の父よ。

 み名があがめられますように。

 み国が来ますように。

 み心が天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。

 私たちに今日もこの日の糧をお与えください。

 私たちに罪を犯した者を赦しましたから、

 私たちの犯した罪をお赦しください。

 私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

 (み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。)

 (アーメン)


12. 祝福 (起立)

司式)主があなたを祝福し、あなたを守られます。

主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます。

主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります。

父と子と聖霊のみ名によって。

 会衆)アーメン。アーメン。アーメン。


13. 後奏

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